聖霊降臨後第10主日 説教
地上に火を投ずる
- 2022年8月14日(日)
- 聖霊降臨後第10主日
- ルカ12章49~56
49「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。 50しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。 51あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。 52今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。
53父は子と、子は父と、/母は娘と、娘は母と、/しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、/対立して分かれる。」
54イエスはまた群衆にも言われた。「あなたがたは、雲が西に出るのを見るとすぐに、『にわか雨になる』と言う。実際そのとおりになる。 55また、南風が吹いているのを見ると、『暑くなる』と言う。事実そうなる。 56偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか。」
きょうの聖書は、《わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである》(49)と始まります。この御言葉は、私たちが持っているイエスさまのイメージとは、ずいぶんかけ離れたものに聞こえます。イエスさまは、平和のないこの世の中に、平和をもたらすために来られたのではなかったのでしょうか。争い、憎み合い、ねたみや怒りが渦巻くこの世の中に、愛とゆるしを説くために来られたのではなかったのでしょうか。それなのに、きょうの聖書でイエスさまは、それと反対のことを言っているようで、私たちは戸惑ってしまいます。一体これはどういうことなのでしょうか。
実は、洗礼者ヨハネも、イエスさまについて、《わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる》(ルカ3章16)と言っています。
聖書では、「火」は神の裁きと結びついています。創世記19章には、神を信じないで悪が満ちていたソドムとゴモラの町が、神のもとから降ってきた硫黄の火によって滅びてしまったことが書かれています。それは神の裁きの火でした。
《その火が既に燃えていたら》(49)。世の終わりの神の裁きがすでに来ていたら、罪と悪にまみれていたこの世界は平和になっていたでしょう。しかしその時は、罪人が皆滅ぼされて、誰一人として残っている人はいないでしょう。私たちはみな、神に対して不信仰で、隣人に対して愛がない罪人です。
《しかし》、とイエスさまは言います。《わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう》(50)。
イエスさまは、なぜそんなに苦しまれるのか。それは、イエスさまが私たちを愛しているからです。私たちが神の裁きの火で滅びてしまうことから、何とか救おうとするからです。神を信じない罪人である私たちが滅びることを良しとせず、何とか救おうとするから苦しむのです。
イエスさまの苦しみとは、イエスさま自身がすでに予告していたご自身の受難のことです。それは、たんにこの世で迫害され、痛い目に遭わせられ、殺されるという苦難だけではなく、神の民を贖うために、民の罪を負い、神の裁きに服する苦しみです。イエスさまはこの苦しみを、受難の地エルサレムに入る直前に、《わたしが飲む杯、わたしが受ける洗礼》(マルコ10章38)と語っています。
イエスさまが受けねばならない「洗礼」とは、教会の礼典としての「洗礼」のことではなく、イエスさまの受難、十字架のことです。イエスさまは、神の怒りの裁きを行うお方として、この地上に裁きの火を投げ入れるために来ました。けれどもまた、この裁き主はご自身が自ら、その裁きを身に受け、苦しまれる、そういう裁き主なのです。それはほかでもない。私たちが受けるべき裁きを免れさせていただき、私たちがイエスさまと結ばれ、父なる神との生き生きとした交わりに生かされるようになるためなのです。
そして、イエスさまは、《平和ではなく分裂をもたらすために来た》(51)と言います。イエスさまこそ、真の平和をもたらすためにこの世に来たのではなかったのか。それなのになぜ。家族の中でさえも対立するとは。
イエスさまはさらに、こう続けたのです。《今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。53 父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、対立して分かれる》(52~53)。
これは、「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである」と言われたことの、避けられない結果です。イエスさまが来られたがゆえに、私たちはこのお方に対して、どのような姿勢を取るのかが問われます。苦しむ裁き主を本当にこの私の主人とするのか、それともイエスさまが身に負われた裁きをあたかもそれがなかったかのごとく歩み続け、ついに自分の身にまともにその裁きを受けることになる道を歩んでいくのか。
イエスさまはわざわざ対立や分裂をしようとしたのではありません。しかしイエスさまを信じなかった人々が、イエスさまを排除し、十字架に追いやったのです。それと同じように、イエスさまを信じた人も、イエスさまに従って行こうとした時に、身近な人たちから、あるいは家族からさえも、誤解をされ、対立が生じ、あるいは迫害をされるということになる場合がある。つまり、イエスさまが来なければ生じなかったであろうような分裂を、私たちはイエスさまを知ってしまったばかりに通っていかなければならないこともあるのです。
次に、イエスさまは天気を見分けることについて話し始めます。《あなたがたは、雲が西に出るのを見るとすぐに、『にわか雨になる』と言う。実際そのとおりになる》(54~55)。
日本でもそうですが、イスラエルでも普通は雲は西から東へ動くようです。ですから、西の空に雲が出てくると、雨が降るということが分かる。なぜ天気のことが気になるかと言えば、お天気が農業やその他の仕事、また生活に影響を与えるからです。雨が降れば農作業や、外での仕事は難しくなるし、買い物に出かけるにも天気は大切です。
続けてイエスさまは言います。《偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか》(56)。
この章の一番初め、群衆たちが集まってきた時に、イエスさまはまず弟子たちに話し始めました。その時にこう語っていました。《ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい。それは偽善である》(12章1)。うわべでは神を敬っていても、心の中では自分が一番大事になっている。神の掟を守れない人を軽蔑し、心の中で裁いている。神の前で自分の真実の姿をさらけ出さずにすませると高を括り、神の前で清い自分を取り繕おうとしている。それがファリサイ派の人々の姿です。
それと同じ言葉、「偽善者よ」が、今度は群衆たちに向けられたわけです。ということは、ファリサイ派であろうが、弟子たちであろうが、そしてこの群衆たちであろうが、誰であろうと、偽善の罪から自由な者はいない、ということです。私たち皆が偽善者だと言っても良いでしょう。
では、群衆たちはどういう意味で偽善者だというのか。イエスさまは群衆に言います。あなたがたは、天候からある兆しを見て取って、それによってその日の生活の予定を立て、これから起こることに備え、対応しながら日常の生活を送っている。そこまで的確に判断ができるのに、なぜ肝心な「今の時」を見分けることができないのか。
この「時」は、時計の目盛りで示される時ではなく、神が決定的なことを行われる時を指します。神が今イエスさまにおいて決定的な訪れ、そして語りかけを与えていることが見えていないのです。終わりの日の決算が迫っていることを自覚せず、神の救いの歴史において今がどのような時であるかに無感覚に、自分が体験する日常生活に埋没し、眠りこんでしまっているのです。この言葉も、「目覚めていなさい」という呼びかけの一つの形です。
今来ているこのお方、イエスさまを前にして、まさに今私たちのこのお方に対する姿勢、態度が鋭く問われずにはいられない、そういう特別な重さと質を持った時間です。そういう特別な時が、今このイエスさまが来てくださったことによって明らかに始まっているのです。「空模様を見分け、これから何がやって来るのかを見越して、ちゃんと備えができるあなたがたでありながら、どうして決定的な今という時をわきまえることができないのか」。それがイエスさまの私たちに対する問いかけなのです。
祈りましょう。天の父なる神さま。あなたが与えてくださった御子の十字架による罪の赦しに真実に生きることができますように。それゆえに今という時があるうちに、あなたと真実の和解に与って生きる者とならせてください。救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン