Sola Gratia

ルター派牧師のページ。

荒波を渡る信仰

説教

22それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。 23群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。 24ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。 25夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。 26弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。 27イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」 28すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」 29イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。 30しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。 31イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。 32そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。 33舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。

1. 群衆の熱狂と、その裏側に残された願い

五千人の供食という奇跡を行った後、イエスさまはなぜ群衆を急いで解散させたのでしょうか。群衆が「王として連れて行こう」(ヨハネ6章15)としていたからです。彼らにとってイエスさまは、空腹を満たし、病を癒やし、自分たちの地上の生活を保証してくれる「都合の良い救済者」だったのです。

解散させられた後も、彼らの心の一部はそこに残されていたはずです。「この人についていけば、今の苦境から抜け出せるかもしれない」、「明日もまた奇跡が起こるのではないか」。名もない弟子として、イエスさまの影に紛れ込み、その奇跡の恩恵に預かり続けようと願う者がいたとしても不思議ではありません。

しかし、イエスさまはあえて彼らを突き放します。ルターは、信仰の歩みにおいて「神を自分の都合に奉仕させようとする」人間の罪深い本性を厳しく指摘しました。イエスさまが強引に群衆を解散させたのは、彼らが抱く「成功への期待」という偶像を打ち砕き、弟子たちをその熱狂から引き離すためでした。真の神への道は、私たちが抱く個人的な期待や要求がすべて消え去った、その荒野のような場所からしか始まらないのです。

2. 山と舟:二つの対照的な聖域

聖書の中で「山」と「舟」は、信仰のあり方を象徴する二つの舞台です。

山は、神の超越性、すなわち天の領域を示しています。イエスさまが一人で山へ向かったのは、人間的な熱狂や称賛から離れ、父なる神との静かな対話の中に、純粋な霊的次元に身を置くためでした。ここには、世俗の論理が入り込む隙間はありません。

一方で、舟は私たちが生きる「日常の現実」です。逆風にさらされ、波に翻弄される舟は、まさに迫害や不安、出口のない迷いに苦しむ教会の姿そのものです。しかし、イエスさまは山の上(天)にとどまるのではなく、その舟(地上)へと歩み寄ります。神が天の栄光に留まるだけでなく、私たちの苦闘のただ中へと介入してくることを体現しているのです。

私たちも人生の途上で、安らぎを求めて「山(静かな祈りの場所)」に逃げ込みたいと思うことがあります。しかし、神は「舟(困難の只中)」から離れることを許しません。神は私たちの祈りの場所にとどまる方ではなく、私たちが震えながら乗っている嵐の中の舟へと接近してくださる方なのです。

3. 風・地震・火の中にいない神、荒波の上にいる神

列王記上19章で、預言者エリヤはホレブ山で強風と地震、火を経験しますが、「その中に主はおられなかった」(11、12)と記されています。これは、主なる神のご自身を現わすその現わし方が、人間の予測する「力による支配」や「劇的な現象」を通すのみではないことを教えています。神はそれらの轟音のあとの、「静かにささやく声」(12)の中におられました。神は、力による圧倒ではなく、言葉による内面的な交わりを望むのです。

マタイ14章の「逆風」は、これとは少し趣旨が異なります。ここでは、風や嵐は神がいない場所ではなく、かえってイエスさまが歩いてくる「道」そのものとなっています。では、なぜ、イエスさまはあえて荒れ狂う風の中を歩いて来たのでしょうか。列王記の風や地震は、神の臨在を告げるための「予兆」でしたが、マタイの湖では、その逆風こそが、弟子たちの信仰を試す「背景」となっています。

神は、私たちの人生の困難を「神がいない場所」としては残しません。むしろ、私たちが絶望し、暴風の音しか聞こえないと信じているその場所こそが、神が私たちに向かって歩んでくるための道なのです。神は沈黙の静けさの中だけでなく、私たちが死の恐怖に震える嵐のただなかで、「恐れることはない」(27)と語りかけてくださる方なのです。

4. 「命令」を求めるという信仰の賭け

ペトロが放った「わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」(28)という言葉は、特異です。「私も歩けるようにしてください」という願いには、自分の能力や決意という「自分」の香りが残っています。しかし、「命令してください」という願いは、すべてを相手に委ねる、いわば白紙委任状です。

マタイ8章で、百人隊長が「ただ、ひと言おっしゃってください」(8)と願ったとき、イエスさまが驚嘆したのは、彼の信仰が「奇跡そのもの」ではなく「主の言葉の権威」に基づいていたからです。言葉一つで万物を創造した神の言葉には、事態を塗り替える力があります。命令を求めるペトロの願いも、これと通底しています。「私が頑張る」のではなく、「あなたの言葉が私を形作る」という服従。これこそが、信仰の真髄です。私たちは自分の意志で人生を歩むのではなく、主の命令という恵みの力によって、不可能を可能にする歩みを許されるのです。

5. なぜ叱られるのか:ペトロの転落と救いの真実

多くの人は、たとえ数歩でも水の上を歩けたことがペトロの信仰の証しであり、沈んだことを失敗と見なします。しかし、沈んだことは問題ではありません。真の問題は、彼が「水の上を歩けた」という事実に目を奪われ、次に「荒波の高さ」という現実に目を奪われたことにあります。

ルターによれば、信仰とは「外にあるもの」に目を留めることではなく、自分を支える「神の約束=イエスさまの言葉」にのみしがみつくことです。イエスさまの言葉から目を離したその瞬間に、彼は重力を感じ、沈み始めました。足元の水を確認し、「自分という存在」を再び見つめ直してしまったのです。

ペトロの「主よ、助けてください」(30)という叫びは、確かに信仰の叫びです。彼は自分の力で水の上に立つことに固執せず、イエスさまの手という外部からの救いに身を委ねたからです。

イエスさまが彼を叱ったのは、冷酷さからではなく、愛の裏返しです。イエスさまは、ペトロが自分自身を見つめることをやめ、再びイエスさまご自身にのみ目を向けるよう促したのです。「私を見つめてさえいれば、重力すらあなたを捕らえることはできない」。叱責は、彼の視点を再び神へと引き戻すための、痛みを伴う呼びかけだったのです。ペトロが「主よ、助けてください」と叫んだとき、彼はようやく「自分」という盾を捨て、完全にイエスさまへと帰順しました。その叫びこそ、真の信仰の完成形なのです。

6. 「神の子」であることの重み

嵐が静まり、弟子たちは「まことにあなたは神の子です」(33)と告白します。

「イエスさまが神の子である」とは、意味を持つのでしょうか。イエスさまが「神のあり方を、この世で肉体を持って体現している存在」であることを意味します。神が創造主として嵐を鎮める権威を持ち、同時に弱き者を救う慈しみを持っていること。その二つがイエスさまにおいて一つになっていると知ったとき、人は「この方こそ神だ」と告白せざるを得ません。

「イエスさまが神の子である」とは、神が自らの権威を捨てて、私たちの「死の領域」である波の上に足を下ろすことを厭わないということです。溺れゆくペトロの手を、直接その手で引き上げることができるのは、イエスさまが「神であり、かつ人である」からです。

人生には必ず、自分の力ではまったく太刀打ちできない荒波がやってきます。そのとき、神を「超越的な存在」として崇めるだけでは、沈んでしまいます。私たちは、「私たちのすぐそばまで歩いてきて、濡れた手で私を抱きとめてくれる人」としての神を必要としているのです。

「神の子」とは、あなたの人生の嵐の中に、その身を投じることを選んだ方の名前です。あなたが「助けて」と声を上げるその一瞬、あなたの手はすでに、神の子の手の中に包まれているのです。

祈りましょう。天の父なる神さま。私たちの歩みは、逆風に漕ぎ悩む小舟のようです。しかしイエスさまに守られた私たちは、決して沈みません。この困難の中にもあなたの恵みを学べることを感謝します。いつもイエスさまだけを見上げて歩めますように。主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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