終わりなき赦し
- 聖霊降臨後第16主日
- マタイ18章21~35
- 9月13日(日)
21そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」 22イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。 23そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。 24決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。 25しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。 26家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。 27その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。 28ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。 29仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。 30しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。 31仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。 32そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。 33わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』 34そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。 35あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」
1. 「七回まで」という区切りと、当時の常識
きょうの箇所では、私たちが最も頭を悩ませ、また胸を突かれる「赦し」というテーマが、一つの深いたとえ話を通して語られます。物語の始まりは、ペトロがイエスさまに投げかけた素朴な質問でした。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したとき、何回なら赦すべきでしょうか。七回までですか」
(21)。
ユダヤ教の伝統的な教えでは、人を赦すのは「三回まで」とされていました。四回目からはもう赦さなくてもよい、というのが当時の律法学者たちの見解です。
ですから、ペトロが言った「七回」というのは、当時の常識からすれば、驚くほど寛大で、精一杯の譲歩でした。私たちは、「ここまで我慢したのだから、もう十分だ」と自分の善意に境界線(合格点)を設けようとします。七回は、人間の私たちが折り合える、精一杯の「我慢の限界」なのです。
2. 「七の七十倍」という無限の広がり
しかし、イエスさまはペトロの期待を鮮やかに裏切る答えを返されました。「七回どころか、七の七十倍までも赦しなさい」
(22)。
この「七の七十倍」とは、「四百九十回になったらおしまい」という区切りではありません。古代のヘブライ語の表現法において、この数字は「数え切れないほど」、「限界がない」、「無限である」という意味です。
3. 私たちが神に負っている「途方もない借金」
この無限の赦しの必要性を教えるために、イエスさまは一人の王と、二人の家臣のたとえ話を語りました。ここで、「私たちが神に負っている借金とは何なのか」について考えてみましょう。
たとえ話の中で、王の前に引き出された一人の家臣は、「一万タラントン」という想像を絶する借金を抱えていました。この「一万タラントン」は、当時の労働者の日当に換算すると、およそ一千万日分、つまり一人の人間が一生かかっても絶対に返しきれない、国家予算レベルの途方もない数字です。
この家臣は、全財産を奪われ、家族まで奴隷として売られる絶望的な状況のなかで、王の足もとにひれ伏し、「どうか待ってください。きっと全部お返しします」
(26)と懇願しました。すると王は、その哀れな姿を見て激しく心を動かされ、なんと「彼を赦し」
、莫大な「その借金を帳消しにしてやった」
(27)のです。
この王は、私たちの天の父なる神です。そして「一万タラントンの借金」とは、私たちが神に対して負っている、自分自身の力では絶対に贖うことのできない「罪の重み」そのものです。私たちは神から命を与えられ、愛されているにもかかわらず、自分中心に生き、神を無視し、隣人を傷つけてきました。その罪の負債はあまりにも大きく、私たちは神の前に永遠に破産しています。神が私たちを赦してくださるということは、この返しようのない借金を、神がご自身の全き愛の負担によって帳消しにしてくださったという奇跡の出来事なのです。
4. 赦された者の矛盾: 百デナリの冷酷さ
しかし、このたとえ話には、人間の悲しい現実が容赦なく描かれます。
莫大な借金をすべて免除してもらったその家臣は、喜んで王の前を退出しました。ところが、その道すがら、自分に対して「百デナリオン」(一万タラントンの60万分の1)の借金をしている同僚を見つけると、その胸ぐらをつかみ、「借金を返せ」
(28)と激しく締め上げたのです。同僚は、先ほど彼がしたと同じように、「どうか待ってくれ。全部返すから」
(29)と足もとにすがりつきました。しかし、あんなにも深い憐れみを王から受けたはずの彼は、相手を牢に放り込みました。
これを知った王は激怒し、彼を牢につなぎ、借金をすべて取り立てることにしました。「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」
(33)。
私たちは神の前では「一万タラントンの罪人」として全面的な赦しを求めながら、いざ隣人が自分に対して小さな過ちを犯したときには、「百デナリオンの債権者」のように振る舞い、相手を絶対に許そうとしません。神から無限の愛と赦しを受けて生きている私たちが、隣人に対してはあまりにも狭量で、冷淡になってしまう。この矛盾こそが、イエスさまが最も深く憂えられた人間の姿でした。
5. 再犯のリスクと被害者の痛み:私たちはどう向き合えばよいのか
さて、現実社会に生きる私たちは、非常に現実的で切実な問いに向き合わなければなりません。「自分が赦したために味を占めた犯人が再犯して別の誰かが被害者になる」というリスクについて、どう考えたらよいのでしょうか。
ここで大切なのは、聖書が教える「赦し」と、社会的な「責任」や「防衛」を混同しないということです。
第一に、イエスさまが語られた「七の七十倍の赦し」は、心の中にある憎しみや復讐心、恨みの連鎖を断ち切るためのものです。「あいつを絶対に地獄に落ちるまで呪い続けてやる」という個人的な復讐の感情を、神の御前に手放すこと。それが聖書の言う赦しの本質です。
第二に、法的な制裁や組織的な制限を加えたり、防衛策を講じたりすることは、愛の否定ではありません。例えば、暴力や不正を働く人に対して「もう近づかないでください」、「警察などのしかるべき機関に相談します」と対応することは、さらなる被害から他の無実の人々を守るために必要な愛の行為です。
「赦すこと」とは、相手の罪を軽視することでも、野放しにすることでもありません。「あなたに対する個人的な復讐の権利を放棄します。しかし、あなたが犯した過ちの深刻さとは誠実に向き合います」という、痛みを伴う決意なのです。再犯のリスクに怯えながらも、憎しみに心を支配されないよう神に助けを求めること。それこそが、この過酷な世界で私たちが歩むべき赦しの姿です。
6. 「不当な損害」をどちらが引き受けるのか
もう一つ、私たちが深く心に留めるべき重要な視点があります。それは、「誰がその損害(痛み)の責任を最終的に引き受けるのか」という問題です。
たとえ話の中で、百デナリの借金を返せなかった同僚は、全額を返すまでは絶対に許されないとばかりに牢屋に入れられました。ここで私たちが気づかされるのは、「人間的な正義や清算の論理」の限界です。
しかし、イエスさまが示した「無限の赦し(七の七十倍)」とは、この損得勘定のシステムを根本から破壊する行為です。
返せないほどの借金(罪や損害)を「ないもの」として水に流すということは、その被害や損失の穴を、赦す側が自分の身をもって引き受け、被り続けることになります。これこそが、十字架の愛のひな形であり、イエスさまが私たちに求めた「赦しの本質」です。私たちは正義の剣を下ろし、自ら痛みの器となることを選ぶように招かれているのです。
7. 結び: 天の父のあわれみにならう者として恵みのなかに歩み出す
たとえ話の最後に、イエスさまはこう語りかけられます。「あなたがた一人ひとりも、もし心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに対して同じようにされるであろう」
(35)。
私たちは、自分がどれほど大きな赦しを受け取っているかを忘れ、隣人のささやかな過ちにこだわり続けます。しかし、十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください」((ルカ23章34)と祈られた方の姿を仰ぎ見るとき、私たちの固くなった心は少しずつ溶かされていきます。
祈りましょう。天の父なる神さま。あなたが御子イエスさまを賜るほどに私たちを愛してくださったことを感謝します。私たちもイエスさまにならい、神を愛することを通して、隣人を赦し愛する道を歩んでゆくことができるようお導きください。私たちの主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン