Sola Gratia

ルター派牧師のページ。

主の愛に包まれる幸い

説教

1イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。 2そこで、イエスは口を開き、教えられた。

3「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。

4悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。

5柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。

6義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。

7憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。

8心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。

9平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。

10義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。

11わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。 12喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

1. 恵みの教えが始まる静かな情景

きょうの箇所は、いわゆる「山の上の説教」の幕開けであり、イエスさまが語った教えの中でも特に広く知られている箇所です。群衆が増え続ける中、イエスさまは山に登り、腰を下ろして弟子たちに教えを説き始めました。

この「(イエスが)腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た」(1)という情景の背景には、当時の教師たちの教え方の伝統があります。山を登る道中、弟子たちは群衆の一人として後ろについて歩いていたのでしょう。しかし、イエスさまが腰を下ろしたとき、それは本格的な教えが始まる合図でした。その動きを察知した弟子たちは、ただの群衆から一歩進み出て、すぐ近くへと引き寄せられるように集まってきたのです。

2. 幸いと現実の狭間で揺れる私たち

この山上で語られる「幸い」の宣言は、私たちが普段思い描く世俗的な幸福の基準とはまったく異なる真理を告げています。16章で、ペトロが信仰を告白して賞賛された直後に、人間の思いに囚われてイエスさまから叱責される場面があります。それを思い起こすとき私たちは、自分たちもまた、恵みによって「幸い」とされながらも、ふとした瞬間に世の価値観に引き戻されて、ルカ6章で言及される「不幸」の側に陥ってしまうのではないかという緊張感を覚えるでしょう。

私たちは決して完璧な存在ではなく、信仰に生きようと志しながらも、日々の生活の中で思い煩いや自分の弱さの前に立ちすくむことがあります。しかし、山上の垂訓が示しているのは、自分の強さによって勝ち取る幸福ではなく、むしろ自分の至らなさを知る者が、主の懐において見出すことのできる深い恵みです。

3. 天の国に包まれる者たちの姿

冒頭の「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」(3)という言葉から、この一連の詩は始まります。ここで「心の貧しい人々」とは、自分の力には何一つ頼るべきものがなく、ただ神の憐れみにすがるほかない、霊的な意味での完全な無力を自覚している人たちのことです。

ここからは、構造を理解するために、少し順序を変えて見ていきましょう。

この詩の初めと終わりである3節と10節は、「天の国はその人たちのものである」という同じ言葉で締めくくられています。この幸いの宣言全体が「天の国」という神の支配と恵みの枠組みの中にすっぽりと包み込まれているのです。心の貧しい者たちが天の国の所有者となるとは、自分の力でその国を買い取るということではありません。むしろ、全能の神がその国を彼らに丸ごとプレゼントし、大切な相続人として迎えてくださるという驚くべき恵みを表しています。

また、この3・10節の「天の国はその人たちのものである」と、8・9節にある「その人たちは神を見る」、「その人たちは神の子と呼ばれる」の類似性も、見逃せません。同じことを指す言い換えで、八つの幸いの四つもが天の国へと帰一するのでしょうか。これらはまったく等しいというわけではありませんが、最終的に同じ救いの現実、つまり神との交わりの深まりを異なる側面から言い表していると言えます。そして、心の貧しい人々、義のために迫害される人々、心の清い人々、そして平和を実現する人々。これらはそれぞれ異なる側面を描いていますが、指し示している中心は一つです。天の国を所有することは、生ける神の御顔を仰ぎ見て親しく交わりを持つことであり、神の子として完全に受け入れられることにほかなりません。したがって、心の貧しさから始まり、義のために迫害されるに至る生き方や、心の清さ、平和を作り出す歩みは、形を変えながらも、神の家族として生きる人間の姿のさまざまな側面を映し出しています。

4. 傷ついた魂に向けられる神の慰め

続いて、4節の「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる」という言葉に目を向けましょう。この受動態には、直接「神によって」という言葉が明記されていませんが、人間の力ではない神の働きを示すものです。(これは、他の各行に関しても同様です。) では、神が慰めるとは具体的にどのようなことでしょうか。それは、私たちが犯した罪の痛みや、この世の理不尽さ、愛する者との別れ、そして自分の弱さゆえの嘆きに対して、御父がそっと寄り添い、その傷ついた魂を優しく包み込んで新しい希望と平安を注ぎ入れてくださることです。人間的な慰めは一時的な気休めに過ぎませんが、神の慰めは、絶望のどん底にある者の人生を根底から覆し、再び立ち上がらせる力を持っています。

5. 柔和な心と義に飢え渇く歩み

さらに、5節では「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ」と語られます。旧約聖書には、悪しき者が栄えるように見える現実の中でも怒りに心を燃やさず、主を待ち望む柔和な者が地に住み続けるという勧奨が繰り返し見られます。(この教えを最も明確に示すものとして、詩編37編が挙げられます。) ここで「地を受け継ぐ」と言われているのは、単に地理的に自分の土地を手に入れるという意味ではなく、神が支配される約束の領域において、安心して生きる権利を与えられるという霊的かつ根源的な報いを意味しています。力や暴力によって支配する者がいつか滅び去る一方で、主の前にへりくだり、柔和さを保つ者は、最後に神の慈しみに満ちた世界を受け継ぐことになります。

6節の「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる」という言葉も、私たちの信仰の核心を突いています。「義に飢え渇く」とは、命の危険を感じるほど激しい飢餓感を覚えるように、神の正しい御心や、この世に神の義が満ちること、そして自分自身が神の前に正しく立たせてもらうことを切に望んでやまない状態を指しています。そして「神がその人たちを義で満たす」とは、私たちが自分の努力で道徳的な高みに達するのを待つのではなく、イエスさまによる救いの業と御霊の力によって、私たちの内側を溢れんばかりの義と真理で満たしてくださるという約束なのです。

6. 小さな預言者として生きる現代の私たち

そして、11・12節で、イエスさまは直接弟子たちに語りかけ、「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである(から)」と結びます。この言葉に照らし合わせるならば、現代を生きる私たちもまた、日々の生活の中でキリストの故に不条理な扱いを受けたり、信仰ゆえに生きづらさを覚えたりするとき、まさにこの幸いの列に連なっています。過去の預言者たちが神の真理を語って退けられたように、現代の私たちもまた、主の愛と平和を僅かなりとも証ししていくときに、その足跡をたどる小さな預言者としての役割を担っているのです。

山上の垂訓の冒頭に響くこれらの言葉は、私たちを裁くための規則のリストではありません。むしろ、自分の弱さや悲しみの中にいる私たちのところへイエスさまご自身が降りてきてくださり、「あなたはそのままの状態で、すでにわたしの愛に包まれた幸いな者である」と宣言してくださる、温かく力強い福音の約束なのです。私たちは、日々の歩みの中でどのような困難や矛盾に直面したとしても、この主のまなざしを思い起こし、天の国を約束された者としての平安を胸に抱いて歩んでいくことができますように。

祈りましょう。天の父なる神さま。み子イエスさまを通して天の国へと導かれる恵みをしっかりと受け取り、また、この恵みの喜びをつねに保って、様々な困難に直面する信仰の歩みを全うできますよう、貧しいわたしたちを顧みてください。救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

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