聖霊降臨 説教
約束の聖霊
- 2022年6月5日(日)
- 聖霊降臨
- ヨハネ14章8~17
8フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、 9イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。 10わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。 11わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。 12はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。 13わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。 14わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」
15「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。 16わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。 17この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」
イエスさまは弟子たちのもとを去るに当たって、こう言われました。《はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである》(12)。弟子たちはイエスさまと同じことを行う。言い換えると、続き行うということ、継承するということです。「わたしが父のもとへ行くからである」と言っているように、イエスさまが父のもとに行った後に、信じる者がイエスさまの御業を継承するように指示しているのです。
「わたしが行う業」とは何か、イエスさまはこう言っています。《わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである》(10)。イエスさまを通して父なる神が語られる。イエスさまを通して父なる神が働かれる。イエスさまの行なう業とは、その言葉や行いによって父なる神を現すということです。
ですから、イエスさまはフィリポにこう言うのです。《フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ》(9)。イエスさまを見たなら、既に父を見ているのです。この世を愛しておられる父、独り子をお与えになるほどにこの世を愛しておられる父を既に見ているのです。
そのイエスさまがこう言います。「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行う」と。イエスさまを信じる者は、ただ自分の救いのためにイエスさまを信じるのではありません。信じる者はイエスさまが行う業を行うのです。神はその人の言葉と行いを通して、御自分の愛を現そうとしているのです。教会は自分たちの平安と喜びのために存在しているのではありません。この世においてイエスさまの行う業を行うために存在しているのです。
そして、イエスさまはこうも言います。《また、もっと大きな業を行うようになる》(12)と。驚くべき言葉です。しかし、歴史的に現実になりましたイエスさまの働きは、パレスチナ地域に狭く限られていました。しかし、そこから外に出て、ユダヤからサマリアへ、さらにはギリシア、ローマへと働きを拡大したのは、後の弟子たちによってでした。そして、神の御業は広がって、この日本にまで至ったのです。確かに「もっと大きな業を行うように」なりました。
しかし、ここが終着点ではありません。イエスさまは直接目の前にいる人たちに「あなたがたは、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる」と言ったのではありません。このことは、あの場にいたかどうかに関係なく、「わたしを信じる者」すべてに与えられている約束です。
ところで、イエスさまは「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行う」と言いました。イエスさまの業に似たような人間の業を行うのではありません。人間が人間の業を行うだけならば「祈り」は必要ないのですが、ここで「祈り」が必要である訳けが示されます。私たちが「祈り」、それをイエスさまが「かなえてくださる」という仕方で、父が御自身の愛を現し、父が与えようとしている救いの御業が実現していくのです。
私たちが願うとか祈るとかとは無関係に、神御自身が直接に救いの御業を進めてくれたら良いのにと思います。しかし、これが神の為され方であって、私たちの存在を重んじてくださっているのです。つまり、願うこともでき、願わないこともできる、そのような私たちの意志を重んじてくださるのです。私たちとは無関係に事を進めようとはなさいません。神は、あくまでも、祈りにおける交わりの中で、「一緒にやろう」と言ってくださるのです。
「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる」。それは私たちの祈りを通して実現していきます。ですから、私たちの周りの人々の上に、この地の上に、イエスさまの御業が現れるように、神の愛がはっきりと形を取って実現するように、真摯に祈り求めることが大事なのです。イエスさまは、《わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう》(14)と言ってくださっているからです。
ヨハネ13章~14章の最後の晩餐の席において、イエスさまは繰り返し「父のもとへ行く」、弟子たちのもとを去る、と語られました。しかし、イエスさまはただ弟子たちのもとを去るだけではありません。イエスさまは、《わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる》(16)、と約束されました。
「弁護者」と訳されている言葉は、「傍らに呼ばれた者」というのが元の意味です。「弁護者」あるいは「助け主」(口語訳聖書)として傍らに来て、共に立ってくださる方、味方になってくださる方です。弟子たちにとってイエスさまはそのようなお方でした。しかし、そのイエスさまは世を去って父のもとに帰ろうとしています。それゆえにイエスさまは父にお願いしてくださると言うのです。そして、父は別の弁護者、すなわち聖霊を遣わしてくださるのです。
そして、五旬祭(ペンコステ)の日にその別の弁護者、聖霊は来てくださいました。こうして教会の歴史は始まりました。そして、「永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」とイエスさまが言われたとおり、別の弁護者、聖霊はずっと一緒にいてくださって今日に至るのです。
イエスさまは続けて、《この方は、真理の霊である》(17)、と言われました。聖霊はイエスさまという真理を悟らせてくださる。聖霊は自分自身を指し示すのではなく、《道であり、真理であり、命である》(6)イエスさまを指し示すのです。ですからそのお方は別の聖書箇所では、《イエスの霊》(使徒言行録16章7)とも呼ばれているのです。聖霊が行うのは、父のもとに帰られたイエスさまの地上における働きなのです。
では、イエスさまが与えてくださったこの約束、弁護者である聖霊が「永遠に一緒にいてくださる」ということを、私たちはどこで経験するのでしょうか。また、真理の御霊である聖霊が、イエスさまとの親密な人格的な愛の交わりを与えてくださるということを、どこにおいて経験するのでしょうか。それは、イエスさまが、《あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る》(15)と言われ、また《あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい》(13章34)と言われたように、イエスさまはそれは互いに愛し合う交わりにおいてなのです。互いに愛し合うということと、聖霊についての約束とは不可分なのです。
聖霊を体験するということは、互いに愛し合う交わりを離れた、教会を離れた、個人的な体験ではないということです。キリスト者の信仰生活において、「共にある」ということは、本質的な意味を持っています。一人で「互いに愛し合う」ことはできないからです。イエスさまは、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」と言われました。「わたしがあなたがたを愛したように」と言われているように、「互いに愛し合う」ということは、イエスさまの愛を、他の誰かと一緒に受けとめることから始まります。共にイエスさまの恵みを喜び、共に祈り、共にイエスさまをほめ称えるところに、互いに愛し合う交わりが生まれます。そこにおいてこそ、聖霊は経験され、復活のイエスさまとの交わりは生き生きと経験されるのです。
祈りましょう。天の父なる神さま。御子イエスさまは弟子たちのもとを去る前に、聖霊を送ると約束され、この日その聖霊を注いでくださいました。どうか世にあなたの愛を証しできるよう、聖霊を降して私たちを新たにしてください。私たちの救い主、イエス・キリストによって祈ります。アーメン