主の昇天 説教
主イエスの昇天
- 2022年5月29日(日)
- 主の昇天
- ルカ24章44~53
44イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」 45そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、 46言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。 47また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、 48あなたがたはこれらのことの証人となる。 49わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」
50イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。 51そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。 52彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、 53絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。
《イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた》(50~51)。イエスさまが天に上げられたとは、弟子たちから離れたということです。それは悲しい出来事だと思われます。しかし、弟子たちは十字架の死によってイエスさまを失った時と同じように悲しむことは、もうありませんでした。《彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた》(52~53)とあります。弟子たちは大いに喜んだのです。それだけでなく、イエスさまの昇天から力を受けて、たびたび神殿の境内に集まって神を礼拝するという生き方に変えられたのです。
つまり、イエスさまが天に上げられるということは、弟子たちにとって、イエスさまが「遠くへ行ってしまう」出来事ではなかったのです。その逆で、彼らにとっては、イエスさまが上げられることによって、「天そのものが近くなる」という出来事だったのです。神御自身が近くなり、救いの世界が近くなったのです。ですから、彼らは喜ばずにはいられません。ですから、「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」のです。
復活して天に上げられたイエスさまを信じる者たちの集いは、後に「教会」と呼ばれるようになります。そして、教会は自らを《キリストの体》(エフェソ4章12ほか)と自覚して、イエスさまと教会の関係を頭と体の関係として語るようになります。天にいますイエスさまと私たちは、頭と体のように、分かちがたく結ばれているのです。それはまた、天と私たちが分かちがたく結ばれているということでもあります。それゆえに、私たちは天に向かって顔を上げ、神を礼拝して生きるのです。
ここで大事なことは、天にいます、教会の頭であるイエスさまは、私たちの罪を贖うために十字架にかかってくださったお方であるということです。私たちを愛し、私たちのために御自身を献げてくださったお方が天におられる。そのことこそが、私たちが天に向かって顔を上げ、希望を抱くことのできる唯一の根拠だということです。このことを強調するのは、日本に住む私たちは、信仰とはまったく関係なく天国について語る人たちに囲まれているからです。そのような人々の中で生活していると、いつの間にか、私たちが天を仰ぐことができるのは、イエスさまを通して与えられた特別な恵みであるということを忘れてしまうことが起こるからです。
もし「天とあなたと何の関わりがあるか」と問われたら、いったいイエスさまを抜きにして、私たちは何と答えることができるでしょうか。私たち人間の現実を正直に見つめるなら、「まことに私たちは天とは何の関わりもない者です」と言わざるを得ないでしょう。
そのような私たちがなおも希望をもって天を仰ぐことができるとするならば、それは一重に、そこにイエスさまがいてくださるからなのです。十字架にかかって私たちの罪を贖い、復活されたイエスさまが、教会の頭としてすでに天にいてくださるからなのです。だからこそ、私たちは安心して天を仰ぐことができるのです。それゆえにまた安心して地上の生涯を終えることもできるのです。頭であるイエスさまはすでに天にいまして、私たちはその一部であるからです。
しかし、話はそれだけで終われません。イエスさまは天に上げられる前に、地上における弟子たちの務めについて語っているからです。
《そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。『次のように書いてある。「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる』」》(45~48)。
確かにメシアは苦しみを受けられました。そして、復活されました。そのようにして世の罪の贖いを成し遂げられました。しかし、イエスさまが成し遂げてくださった罪の贖いの恵みは、人々に届けられ、手渡されなくてはなりません。つまり、宣べ伝えられなくてはなりません。ですから、「罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」と言われているのです。誰が宣べ伝えるのですか。もちろん、弟子たちです。すなわち教会です。私たちです。
「罪の赦しを得させる悔い改め」と記されています。「悔い改め」とは、方向転換をして神に立ち帰ることです。神に立ち帰るならば、神は無条件ですべての罪を赦して受け入れてくださる。この良き知らせが宣べ伝えられなくてはなりません。すでに贖いの小羊は屠られ、罪の贖いは成し遂げられました。神のもとには赦しがあります。立ち帰るならば、神は赦しをもって迎え入れてくださいます。それを知らずに、神に背を向けたままの人は多くいます。あらゆる国のあらゆる人々に、神の救いを宣べ伝えなくてはなりません。教会は、私たちは、その恵みの言葉を託されているのです。
ですから、天にのみ向いていてはならないのです。イエスさまは天に上げられました。しかし、私たちはイエスさまの体として、地上に目を向けなくてはなりません。地上にいる間に、地上にいる人に、伝えるべきことを伝えなくてはならないのです。
しかし、それは決して容易なことではありません。もちろんイエスさまはそのことをご存じです。ですから、イエスさまはこう言ったのです。《わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい》(49)。「高い所」というのは、イエスさまが上げられた天です。イエスさまが天に上げられた後に、今度はその天からの力に弟子たちが覆われるのだというのです。天に上げられたイエスさまが聖霊を地上に注いでくださる。弟子たちは聖霊に満たされ、天からの力に覆われるのです。それが父の約束だ、とイエスさまは言われたのです。
単に言葉を伝達するだけならば、情報を伝達するだけならば、天からの力は必要ないかもしれません。人間の技術だけでなんとかなります。今日においては、インターネットを介して、当時とは比べものにならないほど効率良く、世界中に容易に言葉を伝達することはできるでしょう。
しかし、宣べ伝えるということは、単なる言葉の伝達ではないのです。本当に重要なのは、その言葉と共に、この世において実際に福音を生きている人々の姿があるということです。真に神と共に生きている人々の姿があるということです。この世に遣わされ、真に神と人とに愛をもって仕えている教会の姿があるということです。そのためにも「高い所からの力に覆われる」必要があるのです。
実際、「ルカによる福音書」の続編である「使徒言行録」には、そのような人々の姿が記録されています。聖霊によって変えられた弟子たちの姿をそこに見るのです。誰が一番偉いのかと論じ合い、互いに争っていたあの弟子たちが、そして師であるイエスさまを見捨てて逃げてしまったあの弟子たちが、聖霊に満たされて、上からの力に覆われて、神と共に生きる姿をもって使徒の務めを果たしているのを見ることになるのです。
私たちがただ天にのみ向いているならば、上からの力は必要としません。しかし、神の望んでおられるように、私たちが地上に目を向け、地上において福音を伝えることを、イエスさまの証人となることを求めるならば、聖霊に満たされ天からの力に覆われることが必要です。来週は聖霊降臨祭です。イエスさまの昇天の後、弟子たちがひたすら聖霊に満たされることを求めて待ち望んだように、私たちもまた聖霊に満たされることを祈り求め、私たち自身が上よりの力によって変えられることを求めましょう。
祈りましょう。天の父なる神さま。あなたは御子イエスさまの地上での働きを良しとして、御許に引き上げてくださいました。御子の救いの御業に感謝しつつ、御子の委託に応えたいと心から願います。私たちに聖霊を満たしてください。私たちの救い主、イエス・キリストによって祈ります。アーメン。