Sola Gratia

復活節第6主日 説教

聖霊を与える約束

23イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。 24わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。

25わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。 26しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。 27わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。 28『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。 29事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。

《イエスはこう答えて言われた、「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとその人のところに行き、一緒に住む》(23)。これは、最後の晩餐の席で語られた別れの説教の一部で、直前の22節のユダによる質問に答えたものです。この23節でイエスさまが語っていることは、こういうことです。すなわち、イエスさまを愛する者はイエスさまの言葉を守ります。イエスさまの言葉はイエスさまを遣わされた父の言葉ですから(次節を参照)、イエスさまの言葉を守る者は、父の言葉を守る者として、父が愛されます。父はその人を愛して、イエスさまと一緒にその人のところに来て、その人のところに住まわれます。

イエスさまは、《父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む》と言います。イエスさまを愛する者のところには、復活のイエスさまと、そのイエスさまと一体である父が来て住む、と言うのです。先に「別の弁護者」である聖霊が来て、《この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいる》(14章17)と言われていました。その「別の弁護者」とは、聖霊という形で私たちの内に働かれる復活のイエスさまご自身です。そうすると、イエスさまを愛する者の内には、父と復活のイエスさまと聖霊の三者が来て住まわれることになります。父と子と聖霊はひとつということです。

《わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである》(24)。前の節で「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る」と言われていました。同じことがここでは、「わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない」と、否定の形で述べられています。

イエスさまを愛する者たちはイエスさまの言葉を守ります。それに対して、イエスさまを愛さない者たちはイエスさまの言葉を守りません。そして、イエスさまの言葉は人間としてのイエスさまの言葉ではなく、イエスさまを遣わされた父なる神の言葉ですから、イエスさまを愛さず、イエスさまの言葉を守らない者は、神の言葉を拒み、神に背を向ける者となります。こうして世界は、イエスさまを愛して父・復活のイエスさま・聖霊を内に宿す民と、イエスさまを愛さず神に背く世、という二つの陣営に分かれるのです。

《わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した》(25)。ここで話されていることは、イエスさまが弟子たちと一緒にいた時に語られたことを繰り返し、要約するものです。福音書には、イエスさまが地上にいた時に語られた言葉を記録して伝えるという一面、つまりイエスさまの語録集という一面があります。共観福音書はとくにその面が前面に出ています。それに対してヨハネ福音書は、その一面もありますが、それ以上にもう一つの面が強く出ています。そのもう一つの別の面が次の節で説明されます。

《しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる》(26)。この章の前の方で、去って行かれるイエスさまの代わりに《永遠にあなたがたと一緒に》(16)いてくださる弁護者が約束されました。今ここで、その「弁護者」とは「父がわたしの名によって遣わされる聖霊」であると明言されます。

その「弁護者」の役割は、「あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」ことです。ヨハネ福音書は、この「弁護者」の働きによって「思い起こされた」イエスさまの言葉を世に伝える書物です。それは、たんに伝承されたイエスさまの言葉を伝えるのではなく、いま教会の中に働く聖霊によって、教会が現に聴いている復活のイエスさまの言葉を世に伝えるために書かれた書物なのです。

《わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな》(27)。この「平和」は、ヘブライ語の「シャローム」の訳語で、平和とか平安という一語では表現できない内容を含んでいます。旧約聖書では、どちらかと言えば社会的な意味が強いのですが、イエスさまの時代には、個人の「健康と安心」の意味で挨拶として用いられました。また、キリスト教会では、「恵みと平和(平安)」が挨拶の言葉になりました(ローマ1章7など)。

イエスさまは「わたしの平和」を与えると言います。その「わたしの平和」の意味は、すぐ後に続く文が説明しています。すなわち、「世が与えるようにではなく、わたしが与える」平和だということです。イエスさまが与えてくださる平和は、世が与える平和とはずいぶん違います。

人はみな平和・平安を願います。人々はその平和・平安を確保するために、病気から解放されるために医療制度、社会生活のトラブルから解放されるために警察や裁判所などの制度、経済問題の解決のために保険制度、生活基盤の平和のために軍備や国際組織というように、平和・平安を確保するために膨大な費用を使って、日夜努力を続けています。このような制度・組織が保障してくれる平和・平安が「世が与える平和」です。

しかし、このような「世が与える平和」はしばしば破綻します。そのような制度ではどうしても平和・平安を確保できない時があります。人間が地上で生きていくとき、まったく「心を騒がせない」で生きることは不可能のようです。平穏な人生を送れたとしても、人間には死の不安とか、存在の無意味さへの怖れとか、魂が抱える不安とか恐れがあります。

このような不安の中にいる人間に、父から遣わされ、再び父のもとに帰ろうとするイエスさまは、「わたしは平和をあなたがたに残していく」と言います。父のもとに帰るイエスさまが世にいる者たちに残していく平和・平安は、復活されたイエスさまが「別の弁護者」を送ってくださり、その「弁護者」によって内面の奥深くに生じる平安です。すなわち、聖霊による生の充実、その充実による不安や苦悩の克服、生を脅かす力に対する勝利、確かな約束に基づく輝かしい将来への希望、このような聖霊の実から生じる平和が、イエスさまが与えてくださる平和、「わたしの平和」です。

《『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである》(28)。イエスさまが「わたしは去っていく」と言ったので、弟子たちは心配し、不安に心を騒がせていますが、イエスさまは父のもとに行くのですから、弟子たちはイエスさまが去って行くことを喜ぶべきなのです。イエスさまは父のもとに行き、ご自分に属する者たちを父の家に迎えるために「また戻って来る」と言うのですから、イエスさまをそのような方と信じるのであれば、この別れを喜ぶことができるはずです。しかし、別離を前にした弟子たちは、イエスさまをまだ真に愛するまでには至っていないのです。聖霊の働きを通じて初めて、彼らのイエスさまに対する愛が、ほんとうに成就するわけです。

《事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく》(29)。「事が起こる」というのは、目前に迫っているイエスさまの最後のことです。刑死という最後は、イエスさまが父から遣わされた方であると信じることの妨げになります。事実多くのユダヤ人はローマ総督によって処刑されたイエスさまをメシアと信じることを拒否しました。しかし、そのことが起こる前に言っておくことによって、それが神の御計画の中にあること、したがってイエスさまが神の御計画によって遣わされた方であると受け取ることができるようになるのです。

祈りましょう。天の父なる神さま。御子は御業を成し遂げて御許に帰るとき、ご自分に変わる助け手として聖霊を与えると約束してくさいました。私たちが信仰者として喜びをもって歩みを進めることができますよう、聖霊を送ってください。私たちの救い主、イエス・キリストによって祈ります。アーメン