聖霊降臨後第19主日 説教
結婚・離婚について
- 2021年10月3日(日)
- 聖霊降臨後第19主日
- マルコ10章2~12
2ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。 3イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。 4彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。 5イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。 6しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。 7それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、 8二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。 9従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」 10家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。 11イエスは言われた。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。 12夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」
きょうのテーマは結婚と離婚の問題です。その論争の相手はファリサイ派の人々です。ファリサイ派とはどういう人々なのか、実は史料が少ないために、学者たちも確かなことは言えないといいます。しかし、ファリサイ派は一種の「在家の宗教運動」のようなものだったと考えられていますつまり、神殿経営等にかかわる少数の貴族や大資産家などの富裕層と、「地の民」と呼ばれる貧困層との間の、中間層がファリサイ派と呼ばれる人々でした。彼らは安息日の規定やその他神殿への義務等、律法を忠実に守ることが神からの祝福の条件であり、永遠の命につながることであると固く信じて、そのように生きました。彼らは律法を守れる程度の生活の余裕を持っている人々であって、それらの社会的な義務も果たせないその日暮らしの人々を穢れた人々として軽蔑していたのです。
さて、ファリサイ派の人々がイエスさまに、《夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか》と質問しました。現代ならば夫と妻との婚姻関係を解消するということですが、この議論の背景にある婚姻関係は必ずしも一夫一婦ではないので、その場合には養子関係などで「縁を切る」という意味での「離縁」という言葉の方が、「離婚」よりも相応しいのだそうです。
ファリサイ派の人々に対して、イエスさまは、《モーセはあなたたちに何と命じたか》と逆に問い返します。ここで問題になっている「モーセの言葉」は申命記24章1節の《妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる》という言葉ですが、イエスさまは、それはモーセの不本意な言葉だと言います。なぜなら、モーセがそういうことを語ったのは、《あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ》からです。イエスさまはモーセのこの言葉を「神の言葉」だとは思っていないことが、うかがえます。
イエスさまは、社会規範としての律法の核心的な部分に「神の言葉」としての十戒があり、その言葉を現実生活の中で運用する場合に濃淡さまざまな規定(人の言葉)があるのだと考えています。その中の核心をなすのがモーセの十戒です。ただし、神が求めているのは、書かれた十戒の字面を守ることではなくて、十戒に表現されている神の御心を実践することです。人間の生き方のすべては、その一点から見なければならなりません。
なぜ、十戒を神の言葉であると言えるのか、これについての答えはありません。十戒が書いてあるのは出エジプト記の20章ですが、その前の19章に十戒授与の光景が描かれています。先ずモーセがシナイ山に登り、神からのメッセージを受けます。神は民に掟を与えることを予告し、《もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちは・・・わたしの宝となる》と宣言します。それでモーセは下山して民に神の言葉を伝え、決断を促すと、彼らは、《わたしたちは、主が語られたことをすべて、行います》と誓いました。しかし、もし彼らがあの時、それを拒否したらどうなったでしょうか。明らかにそれは「死」を意味します。「生か死か」という選択は一応選択の形を取っていますが、本質的に選択の余地はなく、実際には白紙委任です。つまり、十戒に対しては人間は「よく分かった上で、自由意志によって」受け入れたのではありません。これは、ユダヤ人として生きるということに伴う無制約的契約、神に養われる人間としての「根源的約束事」なのです。そんな約束はしたことがないというような意志のレベルを超えた人間としての生そのものに属する契約です。それを十の戒めとして言葉化したのが十戒です。十戒の内容は、実際に生きる過程において、人間の生の「当たり前の姿」を描いているのだと理解されていくわけです。
ところで、実はイエスさまに対する信仰もよく分かって受け入れたわけではありません。私たちはイエスさまのことも、罪のことも、義のことも、愛のこともよく分からないうちに、「イエスはキリスト、神の子」という信仰を受け入れ、それに従って生きていく中で、それが受け入れるに足る真実だということ確信していくのです(1テモテ1章15)。
さて、離婚という出来事には何とはなしに「後ろめたさ」が伴います。つまり本来あるべきでない出来事だということです。従って、先ず結婚とは何かということから考えていかないと、離婚について論じることはできません。
イエスさまは、彼らの離婚問題に関する質問に答えようともせず、いきなり結婚について、《天地創造の初めから》語り始めています。結婚とは《男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる》(創2章21~25)ことだといわれます。これは神がそう言ったからそうだというわけでもなく、まさに現実の人間の結婚という出来事そのものを言葉で表現したものです。
この「一体となる」という言葉は、直訳すると「一つの肉体になる」です。結婚の秘儀はここにあります。生まれも育ちもまったく異なる二人の人間が、完全に二つの人格、二つの体でありつつ同時に一つの体になるということ。どの時代、どの民族においても結婚という出来事の内実はここにあります。この関係は他のどんな人間関係とも異なる特殊な関係ですが、同時に全人類に普遍的な関係でもあります。それが結婚です。そういう関係によって人類は子孫を産みだし、社会を構成しているわけです。
アダムとエバとの結婚の場面は、神がアダムに、《人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう》(創2章18)と宣言するところから始まります。そしてアダムに自分に相応しい相手を探すように命じます。アダムはすでに存在しているすべての動物を見ますが、そこには自分に相応しい相手がいません。ここで注目すべきは、結婚の相手はある限られた範囲の中から一人を選ぶという行為ではないことです。そこで神はアダムを深い眠りに誘い、アダムの肋骨の一つからエバを創り出します。ここが結婚ということを考えるときに注目すべき一番大切な点です。結婚の相手とは、その人のためだけに神が特別に創り出した存在です。ですから、アダムはエバを見たとき、《ついに、これこそ、わたしの骨の骨、わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう。まさに、男(イシュ)から取られたものだから》(創2章23)と叫びました。女は男の肋骨から創られたという神話は、女を男に付属するもの、女は男に従う者と解釈されてきました。パウロもそういう傾向があります(1コリント14章33~36)。しかし、この解釈はその時代の男女理解を反映したものです。この神話はむしろ、男も女も互いにその人に「合う助ける者」として特別に創られたものというように理解すべきものです。この互いに「合う助ける者」の元々の意味は、「対等な、向かい合う同伴者」です。
次に、「一体となる」とは、直訳すると「一つの肉体になる」ことですが、聖書はこの関係をもう少し具体的に体験的に語っています。《人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった》(創2章25)。聖書はこの関係の成立の根拠は神によるといいます。
以上が、聖書が語る結婚観です。しかし、神がこう言われたから,結婚についてはこう考えるべきだというのでは決してありません。人間が現実に行っている結婚という出来事の本質そのものが「神の言葉」になっているのです。イエスさまにあっては、神の言葉とはそういうものです。
さて、イエスさまはいよいよ離婚ということについての御自身の「意見」を語ります。《従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない》。この離婚の禁止命令は旧約聖書に根拠は見出せません。パウロはこの言葉の根拠はイエスさまにあると言います。《既婚者に命じます。妻は夫と別れてはいけない。こう命じるのは、わたしではなく、主です。・・・また、夫は妻を離縁してはいけない》(1コリント7章10)。
祈りましょう。天の父なる神さま。御子は聖書の御言葉を解き明かして、神様に養われる人間の基本的な在り方について教えてくださいます。わたしたちを御言葉を通して神様と隣人とに正しく向かい合って生きる者としてください。御子、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
(与えられた箇所は2節から16節までですが、この説教では最初の段落のみを扱います。)