Sola Gratia

聖霊降臨後第20主日 説教

富の危険について

17イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」 18イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。 19『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」 20すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。 21イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」 22その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。

23イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」 24弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。 25金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」 26弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。 27イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」 28ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いだした。 29イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、 30今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。 31しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」

金持ちの青年(マタイ19章22による)がイエスさまの所に走り寄って、ひざまずき、《永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか》(17)と尋ねました。この「永遠の命を受け継ぐ」という言葉は、「神の国に入る」(23,24)、「救われる」(26)、「永遠の命を受ける」(30)と言い換えられます。

この青年が「救われるためには何をしたら良いか」と尋ねたので、イエスさまは、《戒めをあなたは知っているはずだ》(19)と言って、いわゆる道徳的な掟、《殺すな、姦淫するな、盗むな・・・》という十戒の後半だけを取り上げて答え、十戒のうちの大事な前半の「ただ唯一の神のみを拝せよ」という掟には触れませんでした。この青年が、富のほかに何を自分に積み重ねたら救われるかと尋ねたので、イエスさまは質問に沿って、あの後半の掟を守りなさいと言われたのでしょう。

イエスさまは、それより前に、この青年が、《善い先生》と呼びかけたのに対して、《なぜ、わたしを「善い」と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない》(18)と返しています。この応じ方も、「神よりほかに頼れるかたはいないのに、どうしてあなたは自分の富に頼り、自分の善行に頼ろうとするのか」という意味を持つもののようです。

この金持ちの青年の質問は、明日のパンをどうしようかと切羽詰まって生きている人の問いではありません。しかし、「救われる」、「永遠の命を受ける」ということは、深刻な問題です。すべての私たちの行為、生活、生き方はこの問題の上に成り立つものであり、この問題をおろそかにするとき、私たちの生活は根拠を失います。どれほど財産を持っていても決して満足できないし、生きる意味を見出せないし、将来への不安は消えません。それが彼の質問であり、イエスさまさの福音はこの質問に対する答えです。

この青年は、《そういうこと(掟)はみな、子供の時から守ってきました》と答えると、イエスさまは《あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人に施しなさい》(21)と言います。つまり、自分のものだと思っているもの、それをすべて手放してみよ、ということです。ですから、もし彼が、イエスさまのいう通りに、自分の全財産を投げ捨てて、貧しい人に施したとしても、もし彼がそれによって自分を誇り、自分の善行に満足するなら、「あなたに欠けているものが一つある」と言われてしまうでしょう。彼に足りないただ一つのものとは、「自分を捨てる」ということだからです。自分はこれだけのものを持っている、自分がこれだけのことをしてきた、そういう自分の思いを捨てるということだからです。そして自分を捨てるということは、自分だけを信じる、と自分にしがみつこうとすることではなく、自分を捨ててイエスさまに従うということなのです。

たくさんの財産をもっている人はどうしても人に信頼するよりは、お金のほうが頼りになると思ってしまいます。お金というものはそのようにして、私たちの経済生活だけでなく、私たちの魂まで支配してしまうのです。《そうすれば、天に宝を積むことになる》(21)とは、富の危険を自覚させようとする言葉です。イエスさまは、財産を確保しつつ救いを求める、そういう求め方を捨てよ。そういう自分を守る、自分を太らせるものを捨てなさいと言うのです。

金持ちの青年は自分の持っている財産を捨てられないで、イエスさまのもとを去って行きました。その後イエスさまは、《財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか》(23)と言われました。これを聞いて弟子たちは驚き怪しんだといいます。当時の社会では、富は神からの祝福と思われていたからです。弟子たちが驚くと、イエスさまはさらにこう言います。《子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか》(24)。神の国に入るのが難しいのは、何も財産のある人だけではありません。この青年と同じように自分の持っているものを一つも捨てようとしないで後生大事に持っていこうとするとき、財産のない人にだって、それは難しいのだとイエスさまは言うのです。それを聞いて、弟子たちは《それでは、だれが救われるのだろうか》(26)とお互いにつぶやき合ったということです。

するとイエスさまは、《人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ》(27)と答えられました。「何をしたら救われるか」と自分の人間的な可能性を求めて救いを求めようとする限り、救いは遠のくばかりで、それは不可能なことです。しかし、神はこのかたくなな自分をも救ってくださると信じ、ただ神に頼る以外にないと、自分の持っているものをすべて捨てて、いや捨てられなくても、捨てられない自分をそのまま神に差し出して、この自分をまるごと赦し、救ってくださいと、神に信頼するとき、私たちもまた神の国に入ることができるのです。

この聖書の箇所で、印象に残るのは、自分の財産を捨てられないで去って行った青年の後ろ姿ではないでしょうか。《この言葉に気を落し、悲しみながら立ち去っ》(22)て行きました。その後、彼がどのような人生を歩んだかは分かりません。しかし、彼はその後もこのイエスさまの言葉は大変重い言葉として、生涯背負っていったのではないでしょうか。そしてあるいは、徐々にその生き方も変わっていったかもしれません。

自分の持っているものをすべて捨てよ、と言われて、どうしても捨てきれないで、顔を曇らせて、悲しみながらイエスさまのもとを去っていく自分の姿を一度はじっと見つめることが大切だと思います。自分ではどうしても自分を捨てられない、そういう悲しい自分に気づき、どうか、この罪ある私を救ってくださいと祈り出すことが大切なのです。

弟子のひとりのペトロは、《このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました》(28)と胸を張って言ったといいます。マタイ福音書には、《このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか》(マタイ19章27)と言ったと記されています。このように功績を誇る心は私たちにもあるかもしれません。

イエスさまは、《わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で・・・百倍受け・・・》(29,30)と、自分たちの生活の場を捨ててイエスさまに従って来た弟子たちをしっかりと評価しています。しかし、イエスさまは最後にはこう言います。《しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる》(31)。この「後の者」とは誰のことでしょうか。イエスさまは、あの顔を曇らせ悲しみながらイエスさまのもとを去っていった青年のことを思っていたのかも知れません。

弟子たちは、イエスさまの十字架を通して、みなイエスさまに従い得ない自分を見つめさせられて、イエスさまの救いが分かったのです。私たちも、自分の財産をすべて捨てきれない、自分を捨てきれないことに悲しみ、しかしあの青年とは違って、そうだからこそ、なおイエスさまに助けを求め続けていきたいと願って、いま信仰者になっているのではないでしょうか。

祈りましょう。天の父なる神様。本日は、あなたを避けて自分にしがみついている私たちの生き方の愚を示されました。私たちを慈しみ、あなたに養われている者であることを自覚して、あなたの御許に生きる者としてください。御子、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。