Sola Gratia

聖霊降臨後第18主日 説教

最も大切なもの

38ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」 39イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。 40わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。 41はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」

42「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。 43もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。 44† 45もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。 46† 47もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。 48地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。 49人は皆、火で塩味を付けられる。 50塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」

《38 ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちに従わないので、やめさせようとしました。」39 イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。40 私たちに逆らわない者は、私たちの味方なのである。41 はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」》

弟子のヨハネがイエスさまに、《先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちに従わないので、やめさせようとしました》(38)と伝えると、イエスさまは、《やめさせてはならない》(39)と叱りました。

弟子たちがイエスさまに従うために犠牲にしたものは決して小さくないと思います。弟子たちを代表してペトロは、《ご覧ください、私たちは一切を捨てて、あなたに従って参りました》(10章28)と言っています。ですから、いい加減な連中が「イエスの名」を用いて悪霊を追い出すというような行為をすることが許せなかったのでしょう。

学者たちは、ここでヨハネが強調しているこの「私たち」とは、初期の教会における自分たちのグループのことで、彼らは「私たちに従わない者」つまり自分たちのグループに所属しない者たちの霊的活動を問題にしているのだ、と考えています。初期の教会も一枚岩ではなく、いろいろなグループがあったのです。イエスさまはヨハネに対して、《私たちに逆らわない者は、私たちの味方なのである》(40)と諭しています。問題は、弟子たちにとって何が一番大切なのかです。弟子たちは一見すると、「イエスの名」を大切にしているように思われますが、「イエスの名」よりも「私たちに従うかどうか」がより重要なことになったりしていないか。しかし、イエスさまの働きを妨げない者はすべて味方だ、友だというのが、イエスさまの考え方です。

振り返ってみると、キリスト教の歴史は教派・教団の対立・抗争の歴史でした。お互いに、「イエスの名」による他のグループの活動を、自分たちに所属してないという理由で異端のレッテルを貼り、禁圧しようとしてきました。私たちは真剣にイエスさまの40節の御言葉の精神に立ち帰らなければならないと思います。「イエスの名」によって行なわれるそれぞれの活動を、自分たちに所属しないからと敵視するのではなく、お互いに自分たちの味方であるとする態度で受け入れ合うことが求められているのです。この精神が土台にあれば、キリストの民としての霊的な一致と協力が可能となり、現代の世界に対して大きな力となりうると信じます。

イエスさまはその後こう言いました。《はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける》(41)。この言葉は、「あなたは自分たちに従って来ないと、嘆いているけれど、あなたはそんなに偉いのか。あなたからキリストという名前をはずしたら、だれがあなたに水一杯でもさし出してくれるのか」と、強者を批判しつつ、弱者に慈しみの目を注いでいるのです。

《42 「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。43 もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。†45 もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。†47 もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。48 地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。49 人は皆、火で塩味を付けられる。50 塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」》

【本文中の短剣符(†)は、44節と46節は有力な写本に欠けているため、本文に採用されなかったという印です。44節と46節とされていた言葉は、48節の言葉とまったく同じで、イザヤ66章24節の引用です。】

「イエスの名」ではなく、「私たちの権威」が重要なものになっている弟子たちに対して、イエスさまはそんなものがそれ程重要なのかと問います。イエスさまは、この世で重んじられなくてはならないのは、自分たちに従えと尊大に威張っている人間ではなく、「わたしを信じる小さな者だ」と言います。《わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい》(42)。

イエスさまにとってもっとも大切なことは、「信じる者たちの中で最も小さな者を一人でもつまずかせない」ということです。「イエスの名」によって実際に病気が癒やされたのか、悪霊が追い出されたのかということが重要なのです。もし癒やされていなければ、それはわざわざ止めさせなくても自然になくなるでしょう。しかし、もし本当に「イエスの名」によって癒しが繰り返されるならば、「イエスの名」はますます高められるでしょう。それで良いではないか、と言うのです。「イエスの名」はすべての人に開かれています。洗礼を受けようと受けまいと、教会生活を続けようと離れようと、誰でも「イエスの名」によって祈ることは許されているのです。

そして、《もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。・・・もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。・・・もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい》(43~47)と言われます。恐ろしい言葉です。もし片手に問題があるのならば、その手を切り捨てろと言います。マルコは、この言葉と先の42節の言葉とを並べることによって、明白な一つのメッセージを語っています。すなわち、あなたにとって決定的に重要なこととは何か。あなたたちに従わない者が「イエスの名」を用いることはそれ程重要なことなのか、と問うているのです。

「つまずき」という言葉が続いていますが、前の42節では、つまずきは、小さな者を苦しめる行為でしたが、43節以下では、つまずきは、自分の体の一部が自分の信仰の妨げになることです。手や足や目が人を信仰から引き離すというのはどういうことか、ここには具体的なことは何も語られていませんが、マタイ福音書は、目について《みだらな思いで他人の妻を見る》という具体例を述べ、手についても同じような性質のこととして説明しています(マタイ5章27~30)。

これは、片手が信仰のつまずきになったからといって、実際に片手を切り捨てることを求めているのではありません。体の一部を切り捨てたとしても、つまずきがなくなるわけではないからです。つまずきとは心の問題だからです。《片手でいのちに入る方が、両手が揃ったままで地獄の消えない火に落ちるよりもよい》(43)と続いているように、信仰によって父なる神との交わりの現実にとどまることは、五体満足で健康な体を維持することよりも、はるかに真剣で重要な問題であると言っているのです。私たちにとって、キリストの現実にとどまることは、体の生死よりも重大な事柄だということです。

イエスさまにとっては、「神の国」は単なる思想ではなく、父なる神との交わりという現実です。その現実に入るか否かは、人生にとって最も真剣な問題です。「神の国」が人間にとって真剣に問題とするべき現実であるだけに、その現実に入る可能性が永久になくなることは、もっとも恐ろしいことです。「地獄」とは、神との交わりから永久に断ち切られることであって、人間にとって根源的な絶望です。イエスさまはこの絶望に陥ることを真剣に問題にしているのです。

《人は皆、火で塩味を付けられる。塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい》。

人はすべて、消えることのない地獄の火で焼かれないためには、神からいただく別の《火》で《塩味を付けられ》なければなりません。この火は聖霊です。聖霊だけが人を腐敗から守り、神の御心にかない者とするのです。それで、イエスさまの弟子は、何よりも自分の内に聖霊の現実を保つことが大切です。その上で、自分たちだけを尊しとするのではなく、他のグル-プとも互いに和らいで交わりを持ち、その交わりの中で共に成長してゆくのです。

祈りましょう。天の父なる神様、本日の御言葉から、小さな者に対する御子の限りない慈しみと、高ぶる者に対する厳しい警告を聞きました。御言葉と聖霊の導きにより、私たちが御子を信じる小さな者として歩むことを得させてください。御子、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。