Sola Gratia

聖霊降臨後第13主日 説教

弟子たちのつまずき

60ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」 61イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。 62それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。 63命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。 64しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。 65そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」

66このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。 67そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。 68シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。 69あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」

きょうの福音書は56節からと指定されていますが、先週すでに51~58節を学んでいますので、きょう私たちは、「永遠の命の言葉」という小見出しがついた、60節からの新しい段落の箇所に絞って学びたいと思います。

この段落は、《ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」》と始まります。まず、《こんな話》というのは具体的に何を指すのかが問題です。聖書を順序どおりに読むならば、先週読んだ51節以下の箇所を指していることになるでしょう。そこには、聖餐式のことが記されていて、私たちはこの聖餐式を通して、イエスさまと一体となり、それによって、父なる神と一体となるということを学びました。

ところが、多くの学者によれば、51~58節は後の人が挿入した部分とのことです。学者たちがそこを後の挿入だと判断する理由は二つあります。

第一に、その部分は話の筋が横道に逸れていることです。それまではイエスさまが天から降ってきた命のパンであるという話をしていたのに、ここからはまったく別の話になります。ここでは聖餐式について議論されています。

第二は文体や語彙が他の箇所と違うということです。日本語だけ見ても気がつくことがあります。それまでは「パン」という風に言っていたのに、51節後半からは「肉」という言葉が使われるようになります。《わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである》。そしてここでは、「肉」というのは、イエスさまの体のことを指していますから、もちろん良い意味で使われています。ところが、63節では、《命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない》、と言われています。ここでは「肉」という言葉が否定的な意味で使われています。こちらの「肉」というのは、この世の事柄とか、目に見える事柄とか、あるいは実際の食物とか、そういう意味です。どちらかと言えば、否定的な意味あいです。文脈が違うので矛盾ではありませんが、もし同じ人が続けて書いたのであれば、こういう書き方はしなかったのではないかという判断です。

もちろん別の人が書いたものであるからと言って、そこに意味がないということではありません。今、問題にしているのはそういうことではなくて、ここを抜いて読んだ方が、話がすっきりとよく分かるということです。

そういう訳で、51節後半~59節を抜いて読むと、51節前半の《わたしは天から降ってきたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる》という言葉から、《実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか》となります。イエスさまが、実は天から降ってきたパンであるというのは、神の子であるお方が、この地上にやって来られたということです。つまりイエスさまは、実は神の子であったということです。

確かにこのことは現代の私たちにとっても、大きなつまずきであると思います。今日でも聖書を読む多くの人は、「聖書というのは良いことが書いてあるけれども、イエスさまが神の子だというのは、どうも受け入れられない」と言います。それは論理の飛躍だと言います。確かにその通りでしょう。私たちの頭で考えて、「何々、何々である。それゆえにイエスさまは神の子である」とはならなりません。これはそう宣言されて、それを「アーメン」と言って受け入れるか、退けるかのどちらかです。だから「信仰」と言うのです。だから「信じる」という言葉を使うのです。「疑う」ということと裏表なのです。「疑う」ことがある中で、自分は信じる方に賭けるということです。「信仰」は決断を伴うのです。同じことを見聞きしても、同じ聖書を読んでいても、すべての人がそこで信仰にいたるわけではありません。

さて、弟子たちが《実にひどい話だ》と言っているのを聞いていたイエスさまは、こう言われます。《あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……》(61~62)。この「……」の部分は、「もっとつまずくに違いない」ということでしょう。「人の子が降る」ことがクリスマスを指し示しているとすれば、「もとにいた所に上る」というのは、復活と昇天のことを指し示していると言えるでしょう。

私たちのいわゆる「論理」で言えば、イエスさまが天から降ってこられた神の子であるということも、あるいは復活して神のもとへ帰ったということも、論理的には証明できないことです。そこには論理の飛躍があると言われても仕方がないことなのかもしれません。多くの人は「ひどい話だ」と言って、去っていくのです。ところが、このことを裏返して言えば、イエスさまが神の子でなかったということも証明できないのです。証明できたように思ったとしても、それはあくまで私たちの了解している論理の枠組みの中の話に過ぎません。ですからそこでは、それを証言している人々の言葉や、それを信じて生きている人々の生き様を見ながら、そこに私たちも自分の人生を賭けていくかどうかという決断が重要になってくるのです。そしてそのように決断して生き始めるときに、それまでには見えなかったものが見え始めるのです。信仰を持つということは、何か狭い枠の中に自分を押し込んで生きることだと考えている人がいますが、そうではありません。それまでこちら側から見ていた世界を、反対側から見るようになるのです。ですから、そこには全く同じだけの広がりの世界があります。あるいはそれ以上の広がりをもつ世界があるということを、信仰を通して私たちは知ったわけです。

多くの人々がイエスさまに失望して去って行ったとき、イエスさまは弟子たちに、《あなたがたも離れて行きたいか》(67)と言いました。するとペトロはこのように答えました。《主よ、わたしたちは誰のところへ行きましょう。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています》(68~69)。これは、弟子たちを代表したペトロの信仰告白です。「神の聖者」とは、神に聖別された人のことです。

ペトロが信仰告白をした話は、他の福音書にも記されていて、ペトロは、《あなたはメシア、生ける神の子です》(マタイ16章16)と言っています。するとイエスさまから、あなたは幸いだと言われます。しかしその直後に、イエスさまがご自分の死と復活の予告をされたときに、ペトロはこう言います。《主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません》(16章22)。すると、イエスさまはペトロに言います。《サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている》(16章23)。ペトロはサタン、悪魔呼ばわりされてしまいます。サタンとは神の邪魔をする者、神よりも人間のことを思うことです。イエスさまの弟子たちも、ペトロやユダをはじめとしてそうでした。私たち人間も皆、そうです。イエスさまの周囲の人間は、私たち人間のすべてを代表しているところがあります。誰が自分によく似ているか、そんなことも考えられるかもしれません。

私たちはどんな者であっても、恵みの御手の中に置かれています。それは客観的な事実ですが、それを事実として認識するかどうかによって、私たちの人生の意味というのはまったく変わってくるのです。私たちはすべて恵みの招きを受けています。そこで、それに決断して従っていくかどうかによって、人生のあり様が異なってくるのです。《主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます》。イエスさまこそが私たちの救い主、永遠の命の言葉を持っておられます。このペトロの信仰告白の言葉を、私たちも自分自身の言葉として生きていきたいと思います。

祈りましょう。天の父なる神さま。御子は天から降り、十字架の死と復活によって、救いに値しない私たちに救いへの道を切り開いてくださいました。私たちがしっかりとイエスさまにとどまり、共に歩んでいけますよう絶えず導いてください。私たちの主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。