聖霊降臨後第12主日 説教
キリストの体と血
- 2021年8月15日(日)
- 聖霊降臨後第12主日
- ヨハネ6章51~58
「51わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」
52それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。 53イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。 54わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。 55わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。 56わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。 57生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。 58これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」
詩編23編は神の恵みへの感謝を、《主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる》、そして、《わたしを苦しめる者を前にしても、あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ、わたしの杯を溢れさせてくださる》と歌っています。聖書が、神による救いのみ業をこのように食べ物や飲み物を与えて養うこととして言い表しているのは、その救いが観念的なものではなくて、現実的に私たちを生かすものだからです。
イエスさまも、ご自分の与える救いを、食べ物を与えるという仕方で示しました。それが、6章の初めに語られていた、五つのパンと二匹の魚で五千人の人々を満腹にさせた奇跡です。イエスさまはこのように現実的に、人々の飢えを満たしたのです。
パンの奇跡を見た人々は、肉体を養うパンを求めてイエスさまのところに押し寄せて来ましたが、イエスさまは、肉体を養うパンは食べてもまた空腹になるものであり、それによって養われる命はいつか死を迎える、イエスさまの父である神が与える天からのパンこそが、死ぬことのない永遠の命を与えるまことのパンだ、そのパンをこそ求めなさい、と説きました。そして、《わたしは命のパンである。あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない》(48~50)と語ったのです。父なる神は、ご自分の独り子であるイエスさまを、一人の人間としてこの世に遣わして、そのイエスさまを、天からのパン、命のパンとして私たちに食べさせてくださるのです。この天からのパンは、食べてもまた空腹になり、いつかは死んでしまう肉体の命を養うパンよりもより力強く私たちの飢えを満たし、永遠の命を与えるものです。
きょうの箇所の冒頭、イエスさまは、《わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである》(51)、と言っています。ここで、いままで「パン」と言っていたのが「肉」と言い換えられます。このことで、ユダヤ人たちの反発がますます大きくなります。ユダヤ人たちは、《どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか》(52)と言って、激しい議論になりました。
それを受けて、イエスさまは大切な教えを語ました。《はっきり言っておく、人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終りの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである》(53~55)。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲むことによってこそ、あなたがたは復活と永遠の命にあずかることができる。そうでなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉と血こそがあなたがたのまことの食べ物、飲み物なのだ。そのようにイエスさまは宣言したのです。イエスさまの肉を食べるだけでなく、その血を飲むということまで語られています。気持ちの血の悪い、ひどい話です。これは、ユダヤ人たちにとっても、もってのほかの話でした。旧約聖書には、動物の血を飲んではならないという教えがあります。動物の肉を食べる場合も、その血は地面に流さなければならないとされていたのです。まして、人の血を飲むなどということは考えられないことです。ですから、この後にはこう語られています。《ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。『実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか』》(60)。イエスさまに従ってきていた弟子たちの中にも、このことによってつまずいて去って行った者がいたのです。
しかしこの、イエスさまの肉を食べ、血を飲むことこそ、イエスさまというまことのパン、命のパンを食べて永遠の命を与えられるために欠かすことのできないことなのです。イエスさまの肉と血、それは、イエスさまが十字架にかかって死なれた、そこで釘打たれ、槍で刺されたイエスさまの体と、そこで流されたイエスさまの血を指し示しています。その肉を食べ血を飲むとは、もちろん人の肉を食べたり人の血を飲むことではなくて、このイエスさまの十字架の死によって実現した救いにあずかることです。神の独り子であり、ご自身がまことの神であるイエスさまが、私たちの救いのために人間となってこの世を生きて、私たちのすべての罪を背負って、私たちの身代わりとなって、十字架の上で肉を裂き血を流して死んでくださったのです。つまり、神の独り子であるイエスさまが、ご自分の命を私たちの救いのために犠牲にし、与えてくださったということです。それによって父なる神は私たちの罪を赦し、私たちを神の子として受け入れ、イエスさまに与えられた復活と永遠の命を私たちにも与えると約束してくださったのです。このイエスさまの十字架の死による救いにあずかることは、イエスさまの命である血を飲むのと同じことです。神がその独り子イエスさまによって実現した救いは、その独り子の肉を食べ、血を飲むことにおいてこそ私たちの現実となるのです。ですから、イエスさまを信じて救いにあずかるというのは、単にイエスさまが神から遣わされた救い主だという教えを受け入れるということではなくて、私たちがイエスさまの肉を食べ血を飲んで、心と体の全体においてイエスさまと結び合わされ、一体となることです。
《わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる》(56)とあります。イエスさまがいつも私の内にいてくださり、私もいつもイエスさまの内にいる、そのように私たちとイエスさまとが一つとなり、分ち難く結び合わされるのです。イエスさまを信じてその救いにあずかるとは、イエスさまと私たちの間にこのような深い関係が生じることです。このようなイエスさまとの関係こそが私たちを本当に生かすのです。そしてそのような関係は、《わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者》にこそ与えられます。
そのためにイエスさまが与えてくださったのが、聖餐です。聖餐のパンと杯は、十字架上で裂かれたイエスさまの肉とそこで流された血を意味しています。聖餐にあずかることによって私たちは、イエスさまの肉を食べ、血を飲み、イエスさまと一つとされるのです。この聖餐は洗礼を受けた者があずかるものです。私たちはイエスさまを救い主と信じる信仰を告白して洗礼を受けますが、洗礼は私たちの信仰の決意表明ではありません。洗礼を受けることによって私たちはイエスさまの十字架の死と復活の命にあずかり、聖霊の働きによってイエスさまと結び合わされ、一つとされるのです。つまり洗礼を受けた者はイエスさまとの間に、その人は《いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる》という関係を与えられるのです。そのように洗礼においてイエスさまと結び合わされ、深い関係を与えられた者が、聖餐においてイエスさまの肉と血とにあずかり、イエスさまとの関係を現実的に深められつつ歩んでいくのです。そしてイエスさまは、《生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる》(57)と言います。神の独り子であるイエスさまは、父なる神によって遣わされ、父によって生かされています。イエスさまと父なる神の間には、父が私の内におられ、私も父の内にいる、という関係があり、それによってイエスさまは生かされているのです。そういう関係が、イエスさまと私たちの間にも生じます。イエスさまを食べるならば、つまりイエスさまを信じて洗礼を受け、聖餐にあずかりつつイエスさまと一体とされて歩むならば、私たちも、イエスさまが私たちの内におられ、私たちもイエスさまの内にいる、という関係を与えられ、それによって生かされていくのです。
祈りましょう。天の父なる神さま。御子は十字架上で肉を裂き血を流して、ご自分の命を私たちの救いのために与えてくださいました。私たちが洗礼の水と、聖餐のパンとぶどう酒にあずかることを通して、御子と共に生きて行けますように。御子主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。