Sola Gratia

聖霊降臨後第11主日 説教

ユダヤ人からの批判

41ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、 42こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」 43イエスは答えて言われた。「つぶやき合うのはやめなさい。 44わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。 45預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。 46父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。 47はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。 48わたしは命のパンである。 49あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。 50しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。 51わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」

五つのパンと二匹の魚で五千人の人々を満腹にする奇跡を行ったイエスさまは、《わたしは天から降って来たパンである》(41)と言います。これを聞いたユダヤ人たちは、《これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか》(42)とつぶやき合ったといいます。「天から降って来る」のは、神にほかなりません。彼らは、イエスさまが天から降って来た神であるということにつまずいたのです。

私たちは、イエスさまやその両親のことを直接知っているわけではありませんから、このユダヤ人たちとは立場が違います。しかし私たちも、イエスさまが天から降って来た者、つまりまことの神が人間となった方だという教えにはとまどいを感じます。イエスさまの教えはすばらしいし、弱い者、貧しい者と共に生きたその歩みは見倣うべきものです。ですから人間としてのイエスさまを尊敬し、その生き方を手本として歩もうというのは分かります。しかし、イエスさまは天から降って来た独り子なる神だと言われると、そういうことは信じられない、受け入れ難いと思います。人間としてのイエスさまを尊敬し、イエスさまが歩んだように生きようということだけではどうしていけないのか。その方がよほど分かりやすいし受け入れやすいのに。そういう思いは、私たちにもあるのではないでしょうか。ここに語られているユダヤ人たちのつぶやきは、教会の中にあったし、今もあるつぶやきです。

このつぶやきに対して、イエスさまは、ご自分が神であることの証拠を示して人々を説得しようとするのではなく、《わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない》(44)と答えています。《わたしのもとへ来る》とは、イエスさまを信じてその救いにあずかることです。つまり、イエスさまを独り子なる神と信じる信仰は、イエスさまが神であることの証拠を示し、それに納得して信じるようになるというものではなくて、父なる神によって導かれて与えられるものなのです。

父なる神はどのようにして私たちをイエスさまのもとに引き寄せ、信仰を与えてくださるのでしょうか。《彼らは皆、神によって教えられる》(45a)と、聖書から引用されています。これは、イザヤ書54章13節の《あなたの子らは皆、主について教えを受け》を指しているのだろうと考えられています。そしてこの引用に続いて、《父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る》(45b)と言います。イエスさまを信じることは父なる神によって教えられ、そのみ言葉を聞いて学ぶことによってこそできるということです。

神は聖書においてご自分のみ言葉を私たちに語りかけ、教えてくださっているのです。そのみ言葉によって私たちをイエスさまのもとに引き寄せてくださいます。それを信じることができずにつぶやきが生じるのは、聖書から神の教えを聞こうとせず、自分の考え、感覚、あるいは社会の常識によってイエスさまのことを判断しようとするからです。人間の感覚や常識からすれば、人間であるイエスさまが天から降って来た独り子なる神であるはずはありません。しかし聖書から神の教えを聞いていくなら、《神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである》(3章16)という神のみ心を知ることができるのです。そこに、イエスさまは天から降って来た独り子なる神であると信じる信仰が与えられるのです。

イエスさまは天から降って来た独り子なる神であると信じるとは、言い替えれば、《父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである》(46)と信じることです。独り子なる神であるイエスさまによってこそ、私たちは父なる神を示され、信じることができるのです。父なる神がイエスさまのもとに引き寄せてくださった者こそが信じることができるというのは、このことのためです。

独り子イエスさまを信じる信仰はこのようにして神によって与えられます。そして、《はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている》(47)と語られています。イエスさまを信じる者は永遠の命を与えられます。なぜなら、《わたしは命のパンである》(48)からです。イエスさまは、父なる神が天から与えてくださるまことのパンです。このパンを食べる者は、永遠の命を得るのです。そのことが49節以下に語られていきます。《あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる》(49-51)。エジプトを脱出したイスラエルの民は、荒れ野の旅において、神が天から与えてくださったパンであるマンナを食べました。でも、それは肉体の命のためのパンであって、食べてもまた空腹になり、繰り返し食べなければならないものでした。そして、それを食べて満腹した人々も、寿命が来れば死にました。地上のパン、肉体を養うパンとはそういうものです。五千人が満腹した奇跡を体験した人々は、その地上のパンを求めてイエスさまのもとに集まって来ました。しかしイエスさまは、地上のパンを与えるためにこの世に来たのではありません。《わたしは天から降って来たパンである》(41)、《わたしは命のパンである》(48)とあるように、イエスさまご自身が、父なる神が与えてくださったパンなのです。私たちは、イエスさまからパンを与えていただくのではなくて、イエスさまというパンを与えられ、食べるのです。イエスさまが天から降って来たパンであると信じるとは、天からのパンであるイエスさまを食べることです。「パン」はみ言葉、「食べる」はみ言葉を深く聞き学ぶことを意味する聖書の表現です。そしてイエスさまというパンを食べるならば、私たちは死なない、永遠に生きる。なぜなら、イエスさまは、天から降って来て、人間としてこの世を生きて、私たちの罪をすべて背負って十字架の上で死ぬことによって罪の赦しを与えてくださり、そして復活して今や永遠の命を生きておられる、独り子なる神だからです。独り子なる神イエスさまの十字架の死と復活があったからこそ、イエスさまは命のパンであり、このパンを食べるならば、その人は永遠に生きると言うことができるのです。

それゆえに、イエスさまが天から降って来た独り子なる神であるという信仰は、私たちの救いにおいて欠くことのできないものです。この独り子なる神イエスさまを信じるところに、罪人である私たちをただ恵みによって救ってくださる神の愛が示されます。神はこの愛によって私たちを、弱さや罪の中にいるありのままで赦し、救ってくださるのです。そして私たちにイエスさまという命のパンを食べさせ、イエスさまと一つにし、新しく生かしてくださいます。命のパンであるイエスさまによって豊かに養われて、死なない者となる、つまり死によって滅びてしまうのでなく、それを越えて神が与えてくださる命を信じる者となり、その新しい命を今この人生の中で生き始めるのです。

イエスさまを信じて洗礼を受け、イエスさまと結び合わされて生き始めた者は、命のパンであるイエスさまを食べ、既に永遠の命を生き始めているのです。しかしその救いは未だ完成していません。この世の人生にはなお人間の弱さがあり、罪と死の支配があります。私たちは、人間の罪と弱さによる苦しみ悲しみの多い人生を、確実に死へと向かっていく歩みを、イエスさまによる罪の赦しを受け、終りの時に神が与えてくださる復活と永遠の命を待ち望みつつ、それゆえに苦しみや悲しみにおいても忍耐して、希望を失わずに歩むのです。命のパンであるイエスさまは、その歩みにおいて私たちを養い、生かしてくださるのです。

祈りましょう。天の父なる神さま。御子イエスさまを、人に永遠の命を与えるパンとして天から降してくださったことを感謝します。ここに示されたあなたの人に対する真実の愛を信じ、希望と喜びをもって歩み続けられるよう、養ってください。御子主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。