Sola Gratia

聖霊降臨後第14主日 説教

ケガレについての論争

1ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。 2そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。 3――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、 4また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。―― 5そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」 6イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。

『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。/7人間の戒めを教えとしておしえ、/むなしくわたしをあがめている。』

8あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」

14それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。 15外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」

「21中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、 22姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、 23これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」

エルサレムのユダヤ教指導部から遣わされたファリサイ派の人々や律法学者たちが、イエスさまの弟子たちの中に汚れた手で食事をする者がいるのを見て、イエスさまを詰問しました。《なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか》(5)。あなたの弟子たちは「昔の人の言い伝え」に従わないで、汚れた手で食事をしているのに、なぜ、あなたはそれを黙認しているのか、と叱責したのです。

私たちも食事の前には手を洗います。洗わない人を見たら、不潔だ、しつけがなっていないと思うでしょう。ところが、律法学者たちが言うのは、「けがれた手」です。「けがれた手」は、「不潔な手」とは意味が違います。その違いについて、マルコはダッシュで囲って説明を加えています。《ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある》(3~4)。

「昔の人の言い伝え」とは、歴代の指導的な律法学者たちが旧約聖書の律法の守り方を定めた律法の細則の伝承です。この伝承は後にまとめられて書物となっています。

ユダヤ人は「昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をしなかった」とあります。その背景には、「浄、不浄」の問題があります。ユダヤ教が忌み嫌う「ケガレ」には、二種類ありました。一つは食べ物によるケガレです。レビ記11章41~45節に、「ひづめ」が割れている動物、たとえばブタは食べてはいけないとあります。彼らにとってブタは汚れた動物だから、それを食べると自分が汚れます。その汚れを清める方法がないので、一切食べないのです。

もう一つのケガレは、「死」のケガレあるいは「血」のケガレです。これは、清める方法があって、それをすればケガレは解消されるものでした。日本でも、お葬式に参列すると、必ず帰りに会葬礼状とそこに挟まれた「清めの塩」を受け取ります。お葬式から帰って家に入るときは、必ずその塩で身を清めなければいけません。そうしないと汚れを家の中まで持ち込む、と信じられてきました。

手を洗うのは、ケガレを清めるための宗教的儀式でした。消毒液できれいにしたから大丈夫というわけにはいきません。古代人にとって病気の感染が一番恐ろしいことでした。伝染や感染、汚染を防ぐには、合理的な納得のいく説明ができないので、神の命じる「禁忌」として絶対に守らせる以外になかったのだろう、と説明されます。

ユダヤ教徒が「浄、不浄」にこだわる理由は、レビ記11章41~45にあります。《地上を這う爬虫類はすべて汚らわしいものである。食べてはならない。・・・これらによって汚れ、それによって身を汚してはならない。わたしはあなたたちの神、主である。あなたたちは自分自身を聖別して、聖なる者となれ。わたしが聖なる者だからである。・・・わたしはあなたたちの神になるために、エジプトの国からあなたたちを導き上った主である。わたしは聖なる者であるから、あなたたちも聖なる者となりなさい》。

神は聖なる者である。だから、その神と交わり、神の祝福を受けるためには、汚れていては駄目で、ケガレは清めなければいけない。我々も聖なる者となるべきである。ユダヤ人の選民意識は、ここから出てきたのです。

自分たちは特別な、神と同じように聖なる民族である。それを維持するためにはケガレを排除し、汚れたものを口にせず、清められた生活を維持しなければならない。これがユダヤ民族を他の民族と区別する指標になっているわけです。「聖なるものとなる」というと聞こえは良いのですが、本質は「差別」です。

他の民族との違いはどこにあるか。それは誰にでもはっきりとわかる具体的な生活手段、手を洗うとか、あれは食べないとか、どうでもいいようなことをまじめに守るか守らないかによって決まります。「自分自身を聖別」しようとすると、その対極に必ず汚れたもの、触れてはならないものをはっきりと決めなければならないのです。「清い」の対極は、「ケガレ」です。一方に「貴いもの」を立てると、その対極に「賤しいもの」を置かなければならなくなります。差別の根源はそこにあります。

それから、イエスさまは弟子たちに、こう教えました。《皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである》(14~15)。あなたたちは、人間を汚すものは外から入ってくると思って、外ばかり気を配っているが、自分の中から人を汚すものが出ていることに気がつかないのか、と言うのです。

実は、きょうの朗読箇所から省かれている部分(17~20)に重要な言葉があります。この部分が省略されたのは、この部分が礼拝の中で読むには下品な表現があるからだと思われます。弟子たちに言います。《あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に(原文は、「便所」に)出される。こうして、すべての食べ物は清められる》(18~19)。この言葉は、食事の前に手を洗うかどうかということについての議論というよりも、ユダヤ人の間で「汚れた食べ物」として規定されているものへの批判のようです。ケガレを避けようと、食べ物であれ、人であれ、自分の外のものに神経質になっているのは、本末転倒だ。人を汚すものは、あなたがた自身の中から出ていることに気づかないのか。《中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである》(21)。それが人間を汚すのだ。

ここで語られているイエスさまの言葉は、この時代にはとても危険な考え方でした。ユダヤ教徒が長い間築き上げてきた聖なる生活を守るため、そしてケガレを避けるための律法や、「昔の人の言い伝え」にいつまでもこだわっていることがおかしい、そんなものは何の意味もない、と言い切ったからです。イエスさまの言葉は強烈です。すべての文化の、すべての宗教の食物規定を破壊します。食物規定だけではありません。ケガレとか清めという価値観を否定します。キリスト教における聖水とか聖品という価値観も例外ではありません。

イエスさまの戦いは、こうした宗教的に「ケガレ」と断罪されたあらゆるものを、その「意味の牢獄」から解放することでありました。

先ず第一に、イエスさまにとって「ケガレ」とは心の中の問題であり、清さとは倫理上の事柄となります。第二に、食べ物は心の中に入るものではなく、「腹の中に」入り、心とは無関係に体を養い、役割が終われば体から排出される。人体から排出される汚物から魔術性が剥奪されます。第三に、その意味において、すべての食べ物の忌避性は否定されます。このことは、当時の社会において、そして今日でも、非常に大きな福音です。

祈りましょう。天の父なる神さま。御子は律法学者たちとの論争を通して、呪術的な禁忌と差別を破り、自由の福音をもたらしてくださいました。古い価値観に捕らわれ、恐れと差別の中にいる私たちを解き放ってください。御子私たちの主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。