聖霊降臨後第10主日 説教
イエスは命のパン
- 2021年8月1日(日)
- 聖霊降臨後第10主日
- ヨハネ6章24~35
24群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。 25そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と言った。 26イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。 27朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」 28そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、 29イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」 30そこで、彼らは言った。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。 31わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」 32すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。 33神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」
34そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、 35イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」
ヨハネ福音書6章の初めに、わずかな食料で五千人を養った奇跡の話が記されています。群衆はパンをお腹いっぱい食べさせてもらいました。こんな奇跡を行える偉大な名預言者だ、ぜひ自分たちの王になってもらいたいと、群衆は無理やりイエスさまを、自分たちに都合のよい王にしようとします。しかし、イエスさまはそれを良しとせず一人山に逃れます。弟子たちはイエスさまに指示されて、湖の向こう岸のカファルナウムへ舟で渡りますが、湖上で嵐に遭ってしまいます。そこにイエスさまが湖の上を歩いてやって来て、嵐を静め、舟は無事に向こう岸に到着します。それが先週までの話です。
イエスさまが失踪してしまったので、群衆はその翌日、イエスさまを捜します。都合よく群衆は舟に乗ることができて、カファルナウムに渡ります。そしてイエスさまを見つけると、《ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか》と問います。群衆はイエスさまが舟に乗らなかったことを見ています。ところが向こう岸にいるのです。群衆は驚いて、何かの奇跡かと思ったのでしょう。
イエスさまは彼らに、《はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ》と応じます。一時的な必要が満たされると、神の御業もイエスさまの恵みも忘れてしまうのを「満腹する」と言います。パンには与るけれども、命に与ろうとはしないのです。体を支えるパンは、体を生かすほんとうの生命力の「しるし」なのです。イエスさまは群衆に、《朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい》(27節a)と求めます。その上で、《これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である》(27節b)と宣言します。「人の子」とは、イエスさまの自称であり、復活したイエスさまの称号です。この「イエスさまこそ、永遠の命に至らせる食べ物を与える者である」という宣言がきょうの箇所のハイライトです。
27節bの「与える」という言葉には、「分け与える」という意味のほかに、「死に引き渡す」という意味も含まれています。イエスさまは、パンを分け与えるように、ご自分の命を与えられました。イエスさまの十字架の死が、パンの話に込められたもう一つの意味であることを心に留めたいと思います。
さらに、イエスさまは、《父である神が、人の子を認証されたからである》(27節c)と言います。イエスさまにわずかな食料で五千人を養う力があったということは、イエスさまには命のパン、すなわち人に永遠の命を与えることができる力があると、神が太鼓判を押してくださった、確証してくださった。イエスさまはそう言います。パンの奇跡という「しるし」から、私たちが覚るべきことは、そのことです。
《永遠の命に至る食べ物のために働きなさい》と言われて、群衆が質問をします。《神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか》。群衆は永遠の命を得るためにはどんな「神の業」(神が人間にするように求めている行い)をすれば良いかと尋ねます。日本語は単数か複数か分かりにくいですが、この「神の業」は複数形です。つまり、永遠の命を得るために、あれもこれも、いろいろなことをしなければならないと考えているのです。ところがイエスさまは《神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である》と答えます。ここの「神の業」は単数形です。あれやこれやではない。ただ一つ、信じることだ、とイエスさまは答えます。ここで「信じる」とは、対象を客観的に見て信じるということではなく、夫婦の愛のように、互いに一つの交わりに入るという意味です。信仰によってイエスさまと結ばれ、一つになって生きることです。
私たちは信じることによって救われます。善い行いをするとか、他の条件が加えられているわけではありません。「信仰のみ」ということが繰り返し強調されてきました。信じることは、簡単なようでいて、じつは人間にとって一番難しいことです。あれもこれも行うよりも、ずっと難しいことです。信仰とは業を放棄することなのです。事実、信じること、信仰を持つことは、人間には不可能な業だからです。それは聖霊の導き、神の導きなくしてはできないことだ、とパウロは言います。パウロもこう書いています。《聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです》(1コリント12章3)。
イエスさまが《神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である》と答えたとき、この「神の業」は、「神が人に求める業」という意味と共に、もう一つのもっと重要な意味が加えられています。それは、「人のために神が行う業」です。「神がお遣わしになった者を信じること」は人間の業ではありません。信仰こそは、人のために神が行う業です。この少し後の箇所で、イエスさまは《わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない》(44節)と語っています。私たちは聖霊の導きによって信じる道を歩んでいるのです。
《それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです》。群衆は、モーセのこと、きょうの旧約聖書の日課、出エジプト記16章の話のことを言っているのです。イスラエルの民はエジプトでの奴隷生活を脱出し、これから荒野の四十年の旅が始まります。食べ物はどうしたのでしょうか。ヨハネ福音書では「マンナ」、出エジプト記では「マナ」となっていますが、これが四十年間食べ続けた食料になります。イスラエルの民はモーセに食べ物のことで文句を言います。それを聞かれた神が食べ物を与えてくださったのです。《これは一体何だろう》(出エジプト16章15)とイスラエルの人々は言っています。ヘブライ語では「マーナー」です。その言葉が、「マナ」あるいは「マンナ」になったのです。
モーセは四十年もマナで養ってくれました。それでは、あなたはどんなことができるのですか。群衆はイエスさまにそう言っているのです。
すると、イエスさまは彼らに言います。《はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである》。あなたたちは、モーセが天からのパンを与えたと言うが、そうではない。あなたたちに天からの「本物のパン」を与えてくださるのは、イエスさまを遣わされた父であると、こう宣言します。《神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである》。この「天から降って来て、世に命を与える神のパン」とは、イエスさまご自身のことです。
群衆は《主よ、そのパンをいつもわたしたちにください》と言っています。彼らは深く考えずに、「そんなありがたいパンがあるのならぜひ欲しい」と思ったのでしょう。彼らは実際に食べるパンのことしか頭にありませんが、イエスさまは《わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない》と言っています。イエスさまが「命のパン」であり、その命のパンを食べるために、わたしのところに来なさい、わたしを信じなさいと招いておられます。この招きに答えて信仰に生きることは、神から、イエスさまから与えられたものであり、恵みです。これからもその恵みの中に生かしてくださいと祈りたいと思います。
祈りましょう。天の父なる神さま。御子イエスさまは「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と言われました。命のパンであり、恵みの御言葉であるイエスさまに、つねにとどまっていられますように。私たちの主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。