Sola Gratia

顕現後第4主日 説教

教えと癒しの始め

21一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。 22人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。 23そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。 24「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」 25イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、 26汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。 27人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」 28イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。

マタイ福音書に、《イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。そして、ナザレを離れ・・・湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた》(マタイ4章12~13)とあるように、イエスさまはナザレを離れ、このカファルナウムに居を定め、そこから宣教活動を始めました。イエスさまはこの町に住み、この町の人を弟子とし、この町の会堂で教え、この町の多くの病人をいやしました。そして、この町から出て、ガリラヤの諸地方を巡回して神の国(神の支配)を宣べ伝え、この町に帰って来ました。

《イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた》。当時ユダヤ人のどの町にも会堂がありました。ユダヤ人は必ず安息日には会堂に集まって、聖書の朗読と勧めに耳を傾け、賛美と祈りを捧げたのです。会堂の建物とそこでの礼拝は、現代のプロテスタント教会のものと似ていると考えられています。会堂はユダヤ人の宗教生活の中心であっただけでなく、生活のあらゆる面での中心でした。単に安息日の礼拝だけではなかったのです。子供たちへの教育も会堂を中心に行われていました。人々の生活指導も会堂を中心に行われていました。また町の唯一の公の施設として、地方政治も会堂が中心に行われていたのです。

安息日の礼拝で説教するのは、通常はラビ(ユダヤ教の教師)ですが、会堂のメンバーであれば誰でも担当することができましたし、他所から呼んで来て依頼することもできました。聖書の朗読箇所は日課として指定されている場合もあり、説教者が選択する場合もあったようです。

イエスさまは正規の神学教育を受けたラビではありませんが、安息日に会堂に入り、聖書を朗読した後、講壇に座って、ご自分の中に到来している「神の支配」を語り出されたのです。イエスさまは、このように宣教活動を会堂で始めました。つまり、公の場で「神の支配」の到来を宣言したわけです。

その教えの具体的な内容は省略されていますが、会堂でどのように語ったのか、イエスさまが故郷のナザレの会堂で語った時のことが、ルカ福音書4章16~30に伝えられています。イエスさまは、イザヤ書61章1~2の、主の霊を受けて福音を宣べ伝え、《主の恵みの年》を告げ知らせる人物の出現を預言している個所を引用して、《この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した》と言って、ご自身の中に「神の支配」が到来していることを宣言されました。《ヨセフの子》によるこの宣言が会堂に集まる人々にとって、すなわち聖書によって「神の支配」到来の日を待ち望んでいるユダヤ人にとって、よほど大きな驚きであったのでしょう。それは、ナザレではイエスさまへの殺意に変わるほどのものでした。

カファルナウムの会堂の聴衆の驚きについて、マルコは簡潔に、《人々は皆驚いて》と、その事実だけを伝えます。そして、彼らの驚きの理由を、イエスさまの教えの内容ではなく、イエスさまの言葉の持つ力に見ています。イエスさまは、《律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったから》でした。律法学者は、「聖書にこう記されているのはこういう意味です」、「偉い先生はこのように説明、解釈しています」、というように語っていたのです。それに対して、イエスさまは聞き手の心に直接ご自分の言葉を語りかけます。《あなたがたも聞いているとおり、昔の人は・・・と命じられている。しかし、わたしは言っておく。・・・》(マタイ5章21~22、その他)。(旧約)聖書の民イスラエルが、これこそモーセによって与えられた神の啓示であるとして聞いてきたものを超えて、イエスさまは終わりの日に聖書を成就する者として現れ、直接古い契約の民イスラエルに律法を超える言葉を語りかけました。民衆は、律法学者の教えとイエスさまの言葉との次元の違いを直観的に感じて驚いたのです。

すると、《この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて、叫んだ》。人間は、その体に神から命の息(霊)を吹き入れられて生きる者となりました(創世記2章7)。そのような者として、人間はさまざまな霊との関わりの中で生きていまです。人は神の霊を受けることもできますが、汚れた霊(悪霊と同じ)に支配される状態に陥ることもあります。会堂に、《汚れた霊に取りつかれた》人がいて、その人に取りついている霊が自分を圧倒するイエスさまの言葉に直面して、抵抗し、叫び出したのです。霊はイエスさまが誰であるかを知っています。

《ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか》。この霊はイエスさまが自分たちのような霊を支配する権威のある方であることを知っており、今自分が安住して居座っている場所から追放しないように哀願し、抵抗するのです。「滅ぼしに来たのか」と形は疑問文ですが、イエスさまの意図が分からずに尋ねているのではなく、それと知って驚きの声をあげたのです。《正体は分かっている。神の聖者だ》と叫んでいます。霊に取りつかれた人は霊の世界のことをよく知っています。地上の人間がまだ誰もイエスさまが誰であるかを知らないとき、霊はすでにそれを知っていました。イエスさまが神から遣わされた方であり、神の霊によって語る方であり、神に属する方であることを知っていました。この叫びに対してイエスさまは《黙れ》と命じて、それ以上もの言うことを許しませんでした。イエスさまが霊に向かって《この人から出て行け》と命じると、《汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげてその人から出て行った》のです。

こういう記事を読むと、何かイエスさまが新興宗教の教祖のように思えて、変な気がするかもしれません。ここで、汚れた霊に取りつかれた人とは、どんな人のことか考えてみましょう。かつては精神的な病のことが考えられていましたが、それは間違いです。これは、一部の人だけの問題ではなく、むしろ私たちの誰もが関わる問題です。《かまわないでくれ》と汚れた霊は言いました。原文は「あなたと我々と何の関わりがあるか」です。これは、実は、かつての私たち自身の声でもありました。二千年前にイエスというユダヤ人がいたことは分かった。そのイエスが私自身に何の関わりがあるのか。いや、無い。この汚れた霊を追い出してもらった男も、そう思っていたのです。しかし、今やこの男とイエスさまとの間には、関わりの拒否ではなく、新しい関係が始まったのです。汚れた霊の「かまわないでくれ」との叫びは、汚れた霊がイエスさまとの関わりを拒むものであることを表しています。

悪霊がイエスさまの言葉に従って直ちに出て行くのを見て、会堂にいた人たちは非常に驚いて言います。《これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く》。

マルコは《人々は皆驚いて》(原語は非常に強い言葉です)と、人々の驚きを示していますが、それは、この出来事が指し示していること、すなわちイエスさまの中に到来している「神の支配」がいかに人の思いを超えるものであるかを伝えるためです。会堂の人たちは《教え》と言っていますが、イエスさまの教えはもはや教えではなく、私たちが知らなかった新しい次元の言葉です。それは霊を従わせ、病気を癒し、暴風を静め、罪を赦す言葉です。

マルコがイエスさまの宣教活動の最初にこの記事を置いたのは、イエスさまの言葉がすべて《権威ある新しい教え》であること、その教えを語るイエスさまが「新しい」時代をもたらす「権威ある」お方であることを宣言するためです。このお方において新しい時代が旧い契約の民のただ中に到来しているのです。福音が「新しい」というとき、それはもはや次のものによって古びることのない最終的な現実、すなわち終末の現実を指しています。イエスさまの言葉は終末の現実を地上にもたらす力ある言葉です。悪霊の追放や病気の癒しは、このようなイエスさまの言葉の力を指し示す「しるし」です。

救われた男がその後、何を言ったか聖書には記されていませんが、《イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々に至るまで広まった》とあります。評判を伝えたのは会堂の人たちであり、この男自身だったでしょう。私たちの信仰の歩みは、このイエスさまの権威に従っていく歩みなのです。

祈りましょう。天の父なる神さま。御子が地上に降り、身をもって、人に対する愛の御心を示してくださったことを感謝します。私たちが聖霊の導きにより御言葉をとおして神と共に歩む姿勢をしっかりと身に付けることができますように。私たちの主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。