Sola Gratia

顕現後第3主日 説教

伝道開始と弟子獲得

14ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、 15「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。

16イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。 17イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。 18二人はすぐに網を捨てて従った。 19また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、 20すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った

《14 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、15 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。》

イエスさまはヨハネから洗礼を受け、荒れ野でサタンから誘惑を受けました。そして、ついに救い主としての公の歩みを始めます。その救い主としての第一声が、《時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい》でした。このイエスさまの言葉は、ただ最初に語られた言葉であるという以上に、これから始まるイエスさまの救い主としての歩みのすべてを総括している言葉です。ですから、ここに私たちが聞くべきこと、伝えていくべきことのすべてがあるのです。

まずマルコは、「時が満ちた」この時を、《ヨハネが捕らえられた後》であると言っています。つまり、救い主を指し示し、救い主の道備えをするヨハネの時は終わり、救い主の登場の時が来たということです。そして、この「時は満ちた」とは、「神の救いの御計画は前進している」ということです。この希望に向かって私たちは歩んでゆくのです。

次に、《神の国は近づいた》ですが、神の国の「国」とは、「王としての支配」を意味する言葉です。つまり、「神の国」とは、神が王として支配するという意味です。神は宇宙の王であり、絶対的な主権者であると同時に、慈悲深い父でもあります。「神の国は近づいた」というのは、この素晴らしい王の支配がこの地に訪れようとしている、いやむしろ、すでに訪れつつあるということです。イエスさまが来られたのですから、すでに神の国は来たのです。しかし、まだ完成はされていません。近づいたとはそういうことです。どうして神の国が来ていると分かるか。それは、私たちがすでにイエスさまの救いにあずかって、神の国に生き始めているからです。もう来ているのですから、困り果ててしまうような状況の中でも、神の御手の中にある明日を信じることができるのです。しかし、まだ完成はされていません。これが完成されるのはイエスさまが再び来られる時、終末の時です。

この神の国に入るためには、《悔い改めて》福音を信じなければなりません。「悔い改める」とは、神を知らず、神に従うことを知らなかった者が、神を知り、神に従って歩んでいこう、神と共に生きよう、と変えられることです。「悔い改め」というのは、反省とは違います。悔い改めは、その反省している自分が変わらないと駄目だということです。私たちが良いとか悪いとか自分で判断している、その自分の判断や自分の基準そのものが変わることです。これは、新しく生まれ変わると言っても良い、根本的な変化です。そのような根本的な変化が、福音と出会い、福音を信じることによって起きるのです。「悔い改め」と「福音を信じること」とは同時に起きる、一つの事柄の別の言い方と考えて良いでしょう。

イエスさまは、《福音を信じなさい》、と言われました。「福音」とは「良い知らせ」という意味です。イエスさまが宣べ伝えた、「時が満ちて、神の国が近づいた」ことが「良い知らせ」なのです。これが《神の子イエス・キリストの福音》(1章1)です。

この福音を信じるためには、イエスさまと出会わなければなりません。もちろん、肉眼で見るというあり方で出会うことはできません。しかし、イエスさまは復活された後、天に昇られ、そこから聖霊として私たちの上に臨んでくださっています。私たちは、聖霊の働きによって、聖書を通して、説教を通して、イエスさまの言葉を聞き、私に語りかけるお方としてイエスさまと出会うことができるのです。

このイエスさまと出会うことによって、私たちは自分が何と身勝手で、感謝知らずの者で、神をないがしろにしてきたかを知りました。このことを知ったとき、私たちは、この私をそこまで愛してくださっている神に従って歩んでいきたい、イエスさまと共に歩んでいきたいと願わないではいられないでしょう。それが悔い改めです。それは、イエスさまを信じる、福音を信じるという道へと歩み出すことです。悔い改めて、神の国の福音を信じ、神との交わりに生きる者として、神の国の完成に向かって歩んでいきましょう。

《16 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。17 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。18 二人はすぐに網を捨てて従った。19 また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、20 すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。》

私たちが教会に来るようになったきっかけ、動機はさまざまでしょう。しかし、信仰が与えられると、自分が自発的に求めて教会に来たつもりでいたけれども、本当は神に招かれていたのだ、ということを知るようになります。このことを知ることは、私たちの信仰において決定的に大切なことです。キリスト教の信仰は、神の語りかけ、神の招きによって与えられるものだからです。

イエスさまはガリラヤで福音を宣べ伝え始めたのですが、そこで最初にしたことは、弟子を召し出したことです。最初の弟子は、シモン(後にペトロと呼ばれるようになります)とその兄弟アンデレでした。彼らはガリラヤ湖で漁をする漁師でした。彼らはいつものように網を打って魚を獲っていました。すると、そこにイエスさまが来られ、いきなり、《わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう》と言われたのです。そして、この二人は《すぐに網を捨てて従った》。イエスさまの弟子になったのです。次に、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネです。彼らも漁師でした。そして、イエスさまは彼ら二人にも、シモンとアンデレに言った言葉を告げたのでしょう。すると、このヤコブとヨハネもまた、父も雇い人も舟も残して、イエスさまに従いました。イエスさまの「わたしについて来なさい」という招きによって、キリスト教会最初のキリスト者は誕生したのです。

どうして、イエスさまはシモン・アンデレ・ヤコブ・ヨハネに声をかけ、召し出したのか。それは、神が御心の中でお選びになったからとしか言いようがないのですが、この四人の資質、能力、性格といったものによるのではないということは言えるでしょう。このことは、私たちがイエスさまの弟子であるキリスト者とされたのと同じです。私たちの中にキリスト者になるに適している、相応しい性格やら、能力などがあったからではないでしょう。神がなぜか私たちを愛し、選んでくださったから、と言うほかありません。

どうして、イエスさまは福音を宣べ伝えるに際して、弟子を求められたのか。それは、イエスさまを信じるということは、イエスさまに従うということだからです。イエスさまは、福音を宣べ伝え、これを信じて救いにあずかる者が世界中に満ちるようになることを求めたわけですが、それはすべての者がイエスさまの弟子になる、イエスさまに従う者になるということです。ですから、イエスさまは福音を宣べ伝えると共に、弟子を作られたのです。

どうして、シモンもアンデレもヤコブもヨハネも、イエスさまの言葉によってすぐに網を捨て、父や雇い人や舟を残してイエスさまに従ったのか。この疑問に対して、まず確認しておかなければならないのは、神の召命は、人それぞれ違うということです。この召命は、誰一人として同じものはありません。献身の有り様というものは、決して人と比べることはできません。ですから、シモンとアンデレ、ヤコブとヨハネと、自分を比べることは意味のないことです。大切なことは、自分に与えられた召命をしっかり受け止めることです。そして、それに応えることです。

すべてのキリスト者は、召命を受けてキリスト者となったのです。神の語りかけ、招きを受けて、信仰を与えられたのです。この召命の出来事が、私たちの信仰の原点です。信仰が与えられるものだというのは、このことを指しているのです。神からの語りかけを聞かなければ、私たちは信じようがありません。この神、またはイエスさまからの語りかけは、聖書を読んでいて、あるいは主日の礼拝の説教の中で、あるいは一人で祈っている中でと、いろいろな場合があるでしょう。しかし、いずれにしても、信仰は、本当に神が私を愛してくださり、私を救おうとして、私を招いてくださっているということを受け止めることができたときに与えられるものです。それが召命というものであり、この召命によって私たちに信仰が与えられるのです。

キリストの教会は、神に召された者たちの群れです。そのような交わりを形作る者として召されていることを心から感謝し、主の召命に応える者として、この新しい年も歩んでいきましょう。

祈りましょう。天の父なる神さま。あなたが御子をこの世に遣わし、私たちに救いの良き知らせをもたらしてくだった御心を喜びと感謝をもって賛美いたします。どうか私たちを聖霊によって力づけ、あなたの手足としてお用いください。私たちの主イエス・キリストのみ名によって祈ります、アーメン。