Sola Gratia

待降節第4主日 説教

受胎告知

26六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。 27ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。 28天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」 29マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。 30すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。 31あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。 32その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。 33彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」 34マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」 35天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。 36あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。 37神にできないことは何一つない。」 38マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。

《六か月目に》とあるのは、天使ガブリエルによってザカリアに子の誕生が予告されるという出来事があってから「六か月目」ということで、エリサベトの懐妊が知られるようになっていた時期でした。今度は、《ナザレというガリラヤの町》に、神は天使ガブリエルを遣わします。「ナザレ」はイエスさまの両親が住み、イエスさまが育った村です。そのため、のちにイエスさまは人々から「ナザレのイエス」と呼ばれるようになります。

天使ガブリエルが遣わされたのは、《ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめ》のところでした。そのおとめの家系ではなく、婚約者のヨセフの家系が上げられているのは、生まれてくる男の子がダビデの家系に連なるからです。当時のユダヤ教では、来たるべきメシアはダビデの子孫から出ると広く信じられていました。マリアの家系はダビデの家系ではなく、エリサベトの親戚(1章36)ですから、アロンの家の祭司系であると思われます。

当時のユダヤ教社会では、女性の結婚適齢期は10代半ばか後半でした。この時のマリアはそのような年齢の若い村娘でした。「マリア」という名は、ヘブライ語では「ミリアム」で、モーセの姉妹ミリアムに由来する名です。ユダヤ人女性の名としてもっとも多く用いられていた、珍しくない名でした。

《天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる》。天使の挨拶の言葉「おめでとう」は、直訳すると「喜びなさい」です。この挨拶の言葉には特別な意味があります。「喜ぶ」という言葉は、新約聖書では霊的・終末的な喜びを指す言葉です。

マリアは《恵まれた方》と呼びかけられました。「恵み」は神の無条件で一方的な好意の働きです。マリアはこの神の恵みによって選ばれて、救いの出来事において大役を務めることになります。マリアが「恵まれている」のは、《主があなたと共におられる》からだ、と天使は説明しています。

天使の挨拶の言葉が何を意味するのか、マリアは分かりません。天使の出現に怖じ恐れるマリアに、天使はいつものように、まず、《恐れることはない》と言って励まし、《あなたは神から恵みをいただいた》のだと、その理由を説明します。

神の恵みの選びの目的がすぐに続いて語られますが、それはマリアにとってまったく思いもかけない内容でした。《あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい》と、天使はまず男の子の出産を予告します。たしかにマリアはヨセフと婚約しています。ユダヤ教社会では婚約した二人は法的には夫婦と同じ権利と義務をもちます。しかし、実際に女性が男性の家に入って一緒に住むまでは、結婚生活はなく、女性は処女のままです。マリアが天使に、《どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに》と言うのも無理ないことです。

しかも天使はマリアに、《その子をイエスと名付けなさい》と名前を指示します。ユダヤ教社会では子を名付けるのは父親の権利です。「イエス」という名は、モーセの後継者ヨシュアに由来する名で、「ヤハウェ(主)は救いである」という意味の名です。神が名を与えるのは、神がその人物に特別の役割を与えようとしていることのしるしです。その役割が続いて語られます。《その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない》。しかし、マリアは自分の懐妊という告知に心を奪われて、自分から生まれる子がどのように偉大な人物になるか耳に入りません。

《マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる》。マリアの不審に対して、天使はマリアの懐胎が聖霊の働きによるものであると答えます。

聖霊の働きによって処女マリアが懐胎しイエスさまを産んだという「処女降誕」の告知は、科学に反する命題として多くの議論がなされてきました。これを事実だと言い張る人と、神話だと軽く退ける人がいます。今日では、カトリック教会でもプロテスタントの主な教会でも、これは歴史的な出来事を伝える物語ではなく、神がイエスさまを死人の中から復活させたと信じている人々の間で、イエスさまの誕生がその神の働きによる出来事として賛美され、物語られたものと受けとめています。処女降誕は、死人を復活させた神は、処女を懐胎させることができないはずがないという論法で、後代になって信仰箇条として受け入れられたものです。まず復活信仰が生じた、その後から、処女降誕の信仰が生まれたのです。

ペトロやパウロらの使徒たちは、イエスさまを普通に生まれた人と見ていたのです。使徒たちが告知する福音を聞いた人たちは、誕生の次第について何も聞いていませんでした。それでも、イエスさまを復活したキリストと信じた人たちは聖霊を受けて、キリスト者としての信仰と希望に生きるようになりました。つまり、処女降誕は福音の必須の項目ではなく、その信仰はキリスト信仰の不可欠の内容ではないということです。

マタイとルカの降誕物語は、ヨハネ福音書では別の表現で、《言は肉となって、わたしたちの間に宿られた》(ヨハネ1章14)と書かれています。「神が人となった」という受肉の奇跡です。この信仰がさらに、使徒信条では、「主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ」と、華がある表現となって定着して、徐々に広まっていったものと考えられています。

《あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない》。天使ガブリエルは、エリサベトの懐妊を、「神にできないことは何一つない」ことのしるしとして指し示しました。この「神にできないことは何一つない」という言葉は、後にイエスさま自身も宣言しています(マルコ10章27)。この信仰はイスラエルの民がその二千年の歴史を通して形成した信仰であって、それが今天使の口を通してマリアに告げられたのです。

マリアは「神にできないことは何一つない」という天使の宣言にうながされて、「あなたは男の子を産む」という受胎告知を謙虚に受け入れ、《わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように》と言って、ひれ伏します。そこで、使命を果たした天使はマリアから去って行きます。

ここのマリアの言葉は、信仰の本質を見事に言い表しています。この信仰の本質について、後にイエスさま自身が「主人に仕える僕のたとえ(ルカ17章5~10)によって明確に語っています。このたとえは、当時の主人と僕の関係を語った上で(7~9節)、それを比喩として、《あなたがたも(その僕の立場と)同じことだ》と言って、《自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい》と結論(10節)を述べています。神の絶対無条件の恵みが支配する中で、人間が自分をゼロにして神の言葉に従うことが信仰です。つまり、信仰とは、自分を僕の立場に置いて、自分の理解、能力、願望などとはいっさい関係なく、それが主人である神の言葉であるという理由だけで、その言葉に従って行動し生活することです。僕は自分の判断で主人の言葉に従ったり従わなかったりする立場にありません。マリアは見事に身をもってこの信仰を言い表して、代々の信仰者の原型となったのです。

祈りましょう。天の父なる神さま。御子イエスさまを世の救い主として送り出してくださったことを感謝します。喜びと賛美の表現である降誕物語に躓くことなく、代々の人々と共に御子の降誕を大きな喜びと賛美をもって祝わせてください。私たちの主イエス・キリストによって祈ります。アーメン。