Sola Gratia

主の降誕 説教

メシアの誕生

1そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。 2これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。 3人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。 4ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。 5身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。 6ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、 7初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。

8その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。 9すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。 10天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。 11今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。 12あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」 13すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。

14「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」

きょうの朗読箇所は、クリスマスの日の出来事、救い主である主イエス・キリストがお生まれになった日の出来事が記されています。

その頃、世界は慌ただしく動いていました。《そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である》。そのため、《人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った》のです。どの町も、住民登録をするために移動する人で混雑していたことでしょう。マリアは子を宿していましたが、空室のある宿屋を見つけることができませんでした。

この「宿屋」と訳されている言葉は、人を宿泊させてお金を取るという商業的な「宿屋」ではなく、家の「客間」を指すのではないかと考えられています。口語訳聖書では、《客間には彼らのいる余地がなかったからである》と訳されていました。宿屋の部屋ではなくて、客間に余地がなかったようです。

ベツレヘムという町は、エルサレムから歩いて二時間程の田舎町で、おそらく商業的な宿屋などなかったでしょう。そんな町に泊まるわけですから、当然、一般の家の客間に泊めてもらうことになります。当時、旅人をもてなすことは大切なこととされていました。ヨセフとマリアが通されたのは、客間ではなくて、家畜小屋になりました。粗末な造りの小屋か、あるいは教会の初期の言い伝えのように、洞穴のような場所でした。

「宿屋に場所がなかった」のではなく、「客間に余地がなかった」と読むと、だいぶ受ける印象が違ってきます。宿屋の部屋であれば、自分は宿屋の主人ではないから関係ないこと、と言えるかもしれません。しかし、客間に泊まる場所がなかったとなると、私たち一人一人の問題になってきます。あなたの家には、救い主を迎えるための客間がありますかと問われます。

このことを、客間ということではなくて、私たちの心の問題に置き換えて考えてみるとよいでしょう。私たちには救い主を求める心があります。しかし、その心がありながらも、ときに私たちは救い主のことを忘れてしまいます。そのときには、私たちの心に救い主のための場所などなくなります。そして残念なことに、クリスマスの日にも、《宿屋には彼らの泊まる場所がなかった》ということになってしまうのです。これが、私たちの世界の現実です。

ところが、救い主のための場所などまったくなかったこの世界に、そして客間の整わない私たちの家にも、救い主は来てくださいました。私たちは、深い畏れと感謝をもって迎えたいと思います。私たちの救いが、救い主イエスさまの到来によって、確かに始まったのです。

さて、クリスマスの日の出来事は、夜の出来事であると同時に、霊的な意味での闇の中で起こった出来事でもありました。クリスマスは、もちろんイエスさまの誕生を祝う日ですが、それ以上に大切なのは、闇の中に光が現れたということです。闇のただ中にいる私たちを、救いの光で照らしてくださったことこそが、クリスマスの本当の意味なのです。

当時、羊飼いは、人々から見下される、立場の弱い存在でした。その意味で、《羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた》というのも、羊飼いたちが、深い闇に置かれていたことを示しているのでしょう。羊飼いたちは夜の闇を恐れていました。自分たちや羊たちをいつ襲うか分からないものへの恐れがありました。羊飼いたちに限らず、私たちにも暗闇に対する恐れはあります。羊飼いたちは、自分たちや羊たちが暗い闇から守られるようにと願い、朝の光を待ちわびていました。

ところが、思いがけないことに、羊飼いたちを照らしたのは、別の光でした。思いもよらぬ光だったのです。《すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた》。その光とは、「主の栄光」でした。羊飼いたちはすぐに、神が自分たちに迫ってきているということを悟りました。「主の栄光」とは、何よりもそのことを示しています。羊飼いたちは、そのことを「非常に恐れた」のです。私たちも、ここで本当の恐れを知るのです。それは、神の前に立たされるときにあらわになる、私たちの罪です。

ヨハネ福音書は、こう言っています。《光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである》(ヨハネ3章19~20)。この御言葉が私たちに教えるように、神の光が近づいてくるということは、私たちのあらゆる部分が明るみに出されるということです。神に対して犯した罪も、隣人に対して犯した罪も、もはや隠しておくことはできません。私たちは、神の前に恐れのあまり立ちすくまざるを得ないのです。それが私たちの現実です。

ところが、御言葉が私たちに告げているのは、「そこで立ちすくんでいるな」ということです。《天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである』》。天使は立ちすくむ私たちに「恐れるな」と告げます。それは、大きな喜びが与えられているからです。その大きな喜びとは、私たちの罪を赦してくださり、私たちを前進させてくださる、救い主の誕生です。

羊飼いたちが、すぐに目にすることができたのは、飼い葉桶の中の乳飲み子です。この乳飲み子が救い主として、やがて十字架につけられるわけです。この乳飲み子は《布にくるまって》と記されています。布とは、おむつのことで、ここをはっきりと「おむつ」と訳している聖書もあります。

私たちの救い主が誕生したときの姿は、人間が住む部屋の中にも入れず、おむつにくるまって、飼い葉桶の中に寝かされた、本当に小さな乳飲み子です。偉大な救い主であれば、もっと良いところに、立派な服を着て、生まれくることもできたはずです。しかし神はそうはしませんでした。まことの神である救い主を、最も弱く小さな者として生まれさせたのです。そこまで、神は低きに降って、私たちのところに来てくださったのです。

救い主の最初の姿である、最も低いところに降って来てくださった姿は、十字架の姿を暗示していると言えるでしょう。最も小さい者として生まれた救い主は、最も低きに降られた者として十字架につけられます。《これがあなたがたへのしるしである》と天使は告げていますが、まさにそのしるしが、乳飲み子のときから現れているのです。私たちは、十字架の光はもちろんですが、それを指し示す「しるし」を救い主がお生まれになったときから、見ることができるのです。この「しるし」は、もはや恐ろしくて見ることができない光ではありません。私たちに与えられる確かな救いの「しるし」です。

《今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった》と天使は告げています。イエスさまがお生まれになったのは、今から二千年以上も前のことですが、この「今日」という言葉は、決して古い過去の日になることはありません。神は私たちに、今日も、羊飼いたちに聴かせてくださったのと同じ御言葉を与えてくださいます。イエスさまが会堂に入って、そこで聖書を読み終えると、このように言われます。《この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した》(ルカ4章21)。聖書の言葉は、私たちが耳にしたときに、私たちを生かす言葉として実現するのです。

祈りましょう。天の父なる神さま。御子が最も低く、小さい者として私たちの住む世界に訪れ、救いの光をもたらしてくださったことを感謝します。今日、私たちがあなたに立ち帰り、喜びと希望をもって生きていく者となれますように。私たちの主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。