聖霊降臨後第7主日 説教
神の国は成長している
- 2015年7月12日(日)
- 聖霊降臨後第7主日
- マルコ4章26~34
また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」
更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」
イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。
きょうの福音は、イエスさまがお語りになった二つの大切なたとえ話、「成長する種のたとえ」と「からし種のたとえ」です。イエスさまは、このようなたとえ話を用いて人々に教えを語られました。
ここで私たちが心にとめておくべきなのは、イエスさまが語られたのが、私たちがただ守るべき厳しい戒律や道徳的な教訓話などではなかった、ということです。イエスさまが告げ広げておられたのは、ほかならぬ「神の国」でした。
神の国とは、文字通り「神による支配」を意味しています。神の独り子であるイエスさまがこの世に来られたことによって、神の支配がいよいよ現実のものとなろうとしている。その神の国の素晴らしさを、イエスさまはたとえ話によって人々に分かりやすくお語りになったのです。
「成長する種のたとえ」は、「神の国は次のようなものである」という言葉で始まります。また、「からし種のたとえ」も、「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか」と始まっており、どちらのたとえ話においても、語られている中心が「神の国」であることがはっきりと示されています。私たちがこれらのたとえ話から真っ先に読み取るべきなのは、他でもなく、このイエスさまにおいて現実に始まっている神の国のことなのです。
イエスさまが語っておられるのは、「神の国は、もうあなたがたのところに来ている。あなたがたの間で今まさに実現しようとしているのだ」という真理です。1章15節の「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」というお言葉は、まさにそのことを示しています。
「どこか遠くにある神の国を自分で探し求めなさい」とか、「今いる場所が神の国になるように自分の力で努力しなさい」と言われているのではありません。そうではなく、あなたがたが今生きているその現実の中で、あなたがたの人生そのものにおいて、神の国、つまり神の支配が今や実現しようとしているのだと告げられているのです。神が、あなたがたの日々の生活を恵みをもって力強く支配してくださる。その神の支配が、すでに始まっているのだとイエスさまは語っておられます。
「成長する種」のたとえによってイエスさまが語っておられるのは、神の国は一見すると隠されていて目に見えないけれども、確実に前進し、着実に成長している、ということです。
このたとえには、蒔かれた種が芽を出し、すくすくと成長していき、立派な実が実る様子が描かれています。そして、その成長は「ひとりでに」起きるのであって、種を蒔いた人はどうしてそうなるのかを知らない、と語られています。
畑に種が蒔かれると、土の中にすっぽりと埋もれてしまい、その姿は見えなくなります。完全に隠されてしまうのです。しかし、たとえ土の中で隠されていたとしても、種は人知れずしっかりと根を張り、成長していきます。そしてやがて芽を出し、力強く伸びていくのです。その成長の歩みは、「夜昼、寝起きしているうちに」進んでいきます。
もちろん、農夫は作物の成長のために、日頃から水をやり、雑草を刈り、肥料を施すなど、できる限りの手を尽くします。しかし、それらの労力は、あくまでも作物が育つための良い環境を整えることにすぎません。土の中から水分を吸収し、養分を取り入れて自らを成長させていくこと自体は、作物そのものが持っている命の力であり、それは人間の理解をはるかに超えた、人間の力の及ばない領域の出来事です。そのようにして、作物は「ひとりでに」実を結んでいくのです。
この「ひとりでに」という言葉は、人間の理解や力の及ばないところで、神ご自身が作物を成長させ、豊かな実を実らせてくださっているのだ、という真実を私たちに語っています。
神の国もまた、それと全く同じです。イエスさまがこの世に来られたことによって、神の国の種が、すでに私たちのところに蒔かれました。その神の国の種は、今はまだ隠されていて目に見えませんが、着実に成長を始めています。人間の理解を超えた、私たちの力の及ばないところで、神ご自身がそれを大切に育て、やがて豊かな実を結ばせようとしておられるのです。
その収穫の時が、今や着実に近づいています。今はたとえ隠されているように見える神の国であっても、神ご自身の確かな働きによって、いつの日か必ずあわらにされる。だからこそ、そこに揺るぎない希望を置き、収穫の時を心から待ち望みつつ日々を歩んでいこうと、このたとえ話は私たちに教えているのです。
「からし種」のたとえも、これとまったく同じ真理を私たちに語っています。
このたとえ話の大きなポイントは、地面に蒔かれるときには地上のどんな種よりも小さいからし種が、ひとたび成長すると、どんな野菜よりも大きくなる、という点にあります。まるで粉のように小さな一粒のからし種が立派に成長して、その豊かな葉陰に鳥たちが巣を作れるほどの、大きな枝を広げる木になるのです。
このように、神の国、すなわち神の支配は、今はまだ世の人の目には隠されており、目に見えないものであるため、多くの人々はそれに見向きもしません。それどころか、イエスさまを信じているはずのクリスチャンでさえ、日々の生活の中でともすれば疑いに陥ってしまうことがあります。
この世の現実の中においては、神の国を告げる福音は、まさにからし種の一粒のようにちっぽけで、風が吹けば飛んでしまうような、頼りないものに見えるかもしれません。しかし、そのからし種の一粒のような神の国が、やがて大きく成長してどんな野菜よりも大きくなり、鳥たちがその葉陰に安心して巣を作るようになる。
それは、単にサイズが大きくなるということだけを意味しているのではありません。人々が人生の嵐の中で、そこに本当の平安や安心を見出し、身を寄せることができる確かな拠り所となる、ということでもあるのです。今は人の目にも止まらないようなちっぽけな種である神の国が、最終的にはそのような素晴らしい恵みの木へと成長していくのだということを、イエスさまはこのたとえによって力強く語っておられるのです。
このように、イエスさまが二つのたとえ話によって描き出しておられる神の国とは、私たちのただ中に隠された仕方ですでに存在し、神の偉大な御力によって今も成長しつつあり、確実にごミナト(実り)の時へと向かっているものです。
神の国は、私たちの人生の外部のどこかに、じっと静止した状態で存在しているのではありません。むしろ、私たち一人ひとりをしっかりと巻き込みながら動き、前へと力強く進んでいるのです。私たちの日々の生活は、そして私たちの人生そのものは、この神の国の隠された前進の歩みの中にしっかりと置かれているのです。
神の国のたとえ話を本当に理解するというのは、イエスさまから直接この語りかけを聞き取るということです。そして、神の国の完成を心から望み見つつ、この世を歩む旅人として生きるようになることです。
しかしそれは、「神の国という素晴らしい目的地がどこかにあって、私たちが自分の努力でそこにたどり着く」ということではありません。そうではなくて、イエスさまにおいてすでに実現している神の国が、私たちをご自分の恵みの中に巻き込んで、完成へと向かって前進させてくださっているのです。
私たちは、イエスさまとしっかりと結び合わされて生きることによって、この神の国の力強い前進を、日々の人生の中で実際に体験していくことができるのです。
33節と34節には、一連のたとえ話のしめくくりとして、イエスさまが多くのたとえを用いて人々に御言葉を語られたこと、しかし弟子たちにはひそかにすべてを分かりやすく説明されたことが記されています。
これと同じようなことが、すでに11節にも語られていました。そこには、「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される」とありました。
ここで、「あなたがた」とは弟子たちのことです。彼らには神の国の秘密が豊かに打ち明けられていますが、「外の人々」と呼ばれる人々には、たとえによってしか語られませんでした。では、どうしてこのような区別がなされていたのでしょうか。33節には、「人々の聞く力に応じて」たとえで語られたと記されています。
この「聞く力」とは、9節や23節にあった「聞く耳のある者は聞きなさい」というお言葉における、「聞く耳」を持っているということだと言えます。
「聞く耳」とは、ただ音として聞き流すのではなく、「素直に聞こうとする耳」、つまりイエスさま・キリストにしっかりと聞き従おうという真摯な姿勢で御言葉を受け止める耳のことです。イエスさまは、人々のその心の姿勢に応じて御言葉をお語りになったのです。
もし私たちが、自分の考えや私利私欲を基準にして神の御言葉を量り、「この教えは自分にとって価値があるかないか」「この教えは今の自分に役に立つか立たないか」などと判断しているとしたらどうでしょうか。自分が御言葉の上に立って偉そうに裁き、それを判定するような姿勢で耳を傾けているならば、私たちは御言葉の豊かな恵みを十分に受けることはできません。
そうではなくて、自分の思いや勝手な考えが御言葉によって打ち砕かれ、新しく変えられていくことを喜んで受け入れ、その御言葉にどこまでも聞き従っていこうとする素直な心で聞く時に、私たちは御言葉の深い恵みを豊かに汲み取ることができるのです。
自分の願いを叶えるために都合のいい部分だけを聞こうとしている者には、たとえ話だけが語られます。つまり、彼らにとって神の国は、いつまでたっても隠された秘密のままなのです。それは決して、イエスさまが意地悪をして隠しておられるわけではありません。彼ら自身の心が、神の国や神の支配を受け入れようとせずに、かたくなに閉じられているからなのです。
これに対して弟子たちは、イエスさまにひたむきに聞き従おうという思いをもって、イエスさまと共に歩んでいる者たちでした。群衆が「外の人々」と呼ばれるのに対して、彼らは「内にいる人々」でした。
もちろん、彼ら弟子たちにも、さまざまな欠けや罪があり、イエスさまに従っていく歩みの中には数多くの弱さがありました。人間的な能力や、人格的な善良さ、清さ、誠実さという点においては、彼らと群衆との間に何の違いもなかったと言ってよいでしょう。彼らは決して、特別に立派な人たちや優れた人たち集まりではなかったのです。
しかし、ただ一つだけ決定的な違いがありました。それは、彼らがイエスさまに聞き従おうとして、イエスさまの傍らにとどまっていた、という点です。その一点において、彼らは「聞く耳」を持っており、「聞く力」を持っていました。だからこそ、イエスさまはその弟子たちに対して、ひそかにすべてを優しく説明してくださったのです。そこに、たとえ話の表面だけを聞いた群衆との大きな違いがありました。
そのようにイエスさまから直接御言葉の説き明かしを聞いていた弟子たちでしたが、だからといって神の国の秘密を最初から本当に深く分かっていたわけではありませんでした。
イエスさまが兵士たちに捕らえられ、十字架につけられた時、彼らは誰一人として最後までイエスさまにつき従ってゆくことができませんでした。皆、怖くなってイエスさまを見捨てて逃げ去ってしまったのです。
つまり、神の国を告げる御言葉の種は、当時の彼らの心にはまだしっかりと根付いてはいなかったのです。しかし、イエスさまは、そのような情けない失敗をした彼らを見捨てることなく、ご自分の大切な弟子としてその傍らに置き続け、変わることなく御言葉を語り続けてくださいました。御言葉の種を蒔き続け、彼らの心を忍耐強く耕し続けてくださったのです。
そしてイエスさまは、彼らの、そして私たちのすべての罪をその身に背負って、十字架にかかって死んでくださいました。その時、弟子たちは皆逃げ去ってしまい、イエスさまに従う信仰の歩みにおいて決定的な失敗をし、完全な挫折を味わいました。
しかし、父なる神の偉大な御力によって死者の中から復活なさったイエスさまは、再び彼らをその御もとに温かく呼び集め、彼らのすべての罪を赦して、新しく生きる命を与えてくださいました。
神の国、神の支配は、このようにして、イエスさまの十字架の死と復活を通して、つまり人間の力や思いをはるかに超えた神の圧倒的な愛の力によって、見事に実現していったのです。
弟子たちは、この神の国の力強い前進の中に巻き込まれ、その中で、自分自身の罪や弱さと、それによる深い挫折を思い知らされました。それと同時に、イエスさまの十字架の死と復活によってもたらされた罪の赦しと、新しい命の恵みを、心から味わい体験させられていったのです。そうして彼らは、神の国と神の支配を本当の意味で知り、心から信じる者へと変えられていったのでした。
神の国は今、私たちをも同じように巻き込んで前進しています。私たち一人ひとりの日々の生活が、そして私たちの人生そのものが、この神の国の確かな成長の中に置かれているのです。
神の国の列車が、私たちをも乗せてすでに走り始めていることを信仰の目ではっきりと見つめ、目的地である豊かな収穫の時を心から待ち望みながら、旅人としての歩みをこれからも続けていきたいと願います。その幸いな旅路の中で、主は私たちをも神の国の前進のために用いてくださる。その素晴らしい恵みを、私たちもまた日々の生活の中で体験させられていくのです。