Sola Gratia

聖霊降臨後第4主日 説教

安息日に麦の穂を摘む

ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。イエスは言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」

イエスさまはガリラヤ湖畔の町カファルナウムで「神の国」の福音を説き始めると、次いでガリラヤ地方の町々村々を巡り歩いて宣べ伝えました。すると、たちまちイエスさまの説く福音は当時のユダヤ教のあり方とは相いれないことが明らかになり、さまざまな論争が起こります。きょうの福音は、その中でも「安息日」をめぐる論争です。

ある安息日に、イエスさまと弟子たちの一行は麦畑を通って行かれました。マタイによる福音書12章1節には《弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた》とあり、ルカによる福音書6章1節には《弟子たちは麦の穂を摘み、手でもんで食べた》と記されています。

麦をそんなふうにして食べるのは、普段であれば少し異様な光景です。それほどまでに彼らはひどく空腹だったのでしょう。当時の宣教活動がどれほど過酷で、苦労に満ちたものであったのかが偲ばれます。

しかし、その様子を見咎めたファリサイ派の人々は、すかさずイエスさまに詰問します。

《御覧なさい。なぜ、彼は安息日にしてはならないことをするのか》(2章24節)。

彼らは、弟子たちが勝手に他人の麦畑の穂を摘んだことを批判しているのではありません。実は、それ自体は当時の律法において許されていました。申命記23章26節には、次のように定められています。

《隣人の麦畑に入るときは、手で穂を摘んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない》。

神は、畑の所有者がそれを寛容に許すことによって、貧しい人や飢えている人を助けることを望んでおられました。では、ファリサイ派の人々が一体何をとがめたのでしょうか。それは、弟子たちがこの行為をしたのが、ほかならぬ「安息日」だったからなのです。

そもそも安息日とは「休みの日」という意味であり、ユダヤ教では週の7日目(土曜日)を休日として働きを休み、神を礼拝するために集う日として大切に守ってきました。

安息日には、一切の仕事をやめて休むことが律法によって厳しく定められています。律法の中心である「十戒」には、次のように命じられています。

《安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない》(出エジプト記20章8〜10節)。

ファリサイ派の人々は、どうしたらこの「いかなる仕事もしてはならない」という戒めを完璧に守れるかを真剣に検討するようになりました。その結果、商売をすること、荷物を運ぶこと、火をたくことなど、安息日の禁止行為が次第に綿密に定められていったのです。

例えば、使徒言行録1章12節には次のように書かれています。

《使徒たちは、『オリーブ畑』と呼ばれる山からエルサレムに戻って来た。この山はエルサレムに近く、安息日にも歩くことが許される距離の所にある》。

ここにもあるように、「安息日に歩いても許される移動距離」まで細かく定められていました。これはおおよそ900メートルですが、そのくらいの距離なら歩いてもよいが、それ以上歩くと「仕事をしたこと」になり、許されないというのです。

同じように、麦の穂を摘むことは「刈り入れ」という仕事に当たり、手でそれを揉むのは「脱穀」という仕事に当たるから、これも安息日にしてはならないことだとされたのです。いつの間にか、人々の生活は安息日の細かい規定や律法に完全に支配されるようになってしまいました。

イスラエルでは、今でも安息日の生活にはさまざまな制約があります。例えば、エレベーターの行き先階のボタンを押すことさえも仕事に当たると禁じられており、そのため安息日にはエレベーターがすべて各階止まりになるほどです。それは、人がボタンを押さなくても自由に乗り降りできるようにするためなのです。

イエスさまは、こうしたファリサイ派の人々の非難に対して、サムエル記上21章に記されているダビデのエピソードを持ち出して答えられます。

ダビデはこの時まだ王になっておらず、サウル王に激しく憎まれて命を狙われ、各地を逃げ回っていました。その過酷な逃亡生活の中で、自分と共の者たちの食べ物がすっかりなくなり、ひどく空腹だった時、彼は神の家に入り、「祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパン」を共の者たちと一緒に食べたのです。もちろん、無理に押し入ってパンを奪ったわけではありません。その事情を察した祭司が、自らそのパンを分け与えてくれたのでした。

当時の聖所では、至聖所の前に置かれた金の机の上にパンが12個供えられていました。このパンは、日々の食物をくださる神への感謝を表すものであり、安息日ごとに新しく取り替えられる決まりでした。そして、一週間供えられていたその古いパンは、祭司だけが聖所で食べることができたのです(レビ記24章5〜9節)。

では、なぜイエスさまはこの話をされたのでしょうか。「ダビデは確かに律法を犯したけれども、このように命に関わる危急の場合には、その行為は特別に許されているのだ」と説明しようとされたのでしょうか。

もしそう考えるならば、私たちもファリサイ派の人々と同じように、依然として「律法がすべてを支配する信仰」の中に立つことになってしまいます。そうではなくて、イエスさまはここで、ダビデが律法に違反したという事実をあえて取り上げることによって、律法それ自体の意味を根本から問い直そうとされているのです。

きょうの第一朗読では、申命記の「十戒」から安息日の掟が次のように語られていました。

《安息日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである》(申命記5章12〜15節)。

ここに示されているように、あなたの下で働く奴隷たちにもしっかりと休みを与えること、これが安息日の律法の大切な目的の一つです。そしてその根拠として、あなた自身がかつてエジプトの国で奴隷であったが、神がそこから力強く導き出し、奴隷の身分から完全に解放してくださったという歴史の事実が挙げられています。

奴隷の過酷な苦しみに喘いでいる人々に、神の解放の恵みを存分に味わわせ、明日の希望を与える。そのためにこそ、安息日が定められたのです。

イスラエルの民がエジプトで奴隷として苦しんでいた時、彼らはまったく安息を得ることができず、侮蔑と酷使の中に呻き、ただただ嘆くことしかできませんでした。しかし、神はその呻きを聞いて深く憐れみ、彼らをエジプトの奴隷の家から救い出して、本当の安息を与えてくださったのです。

それは、人間が何かを働き、素晴らしい功績を積んだこととはまったく無関係に、ただ神の一方的な恵みによって与えられたものでした。イエスさまが「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」と宣言されるのは、まさにこの理由からです。

イスラエルの民が安息を守るのは、「自分たちが神に贖われ、神の民として今こうして生きているのは、ただ神の働きによるのであって、自分たちの功績は何もない」ということを心から告白し、神お一人をほめたたえるためです。つまり、安息日とは、神の一方的な恵みの御業を心から祝う、お祭りのような日だということができます。

しかし、イスラエルの民は、出エジプトの後にも再びバビロニアでの捕囚という苦難を体験しました。バビロンでの奴隷状態からようやく解放されてエルサレムへ帰還した後に、イスラエルは、その救いの喜びを安息日制度の確立によってしっかりと伝えようとしました。いつしか「安息日を厳格に守るか否か」が、自分たちと他民族を区別する大切な基準となっていったのです。

しかし、イエスさまの時代には、この本来の「救いの喜びを味わう体験」が、いつの間にか細かな規則や律法にすり替わり、逆に人間を従属させ、厳しく支配する制度へと完全に逆転してしまっていたのでした。

きょうの福音を読むと、ファリサイ派の人々の律法理解がいかに本末転倒していたかよく分かります。しかし、これは決して私たちにとっての他人事ではありません。私たちは、神が安息日を与えてくださった本来の目的を、本当にしっかりとわきまえているでしょうか。

神に従い、信仰をもって生きるということは、本来、神からあふれる祝福と恵みをいただき、本当の安息を与えられて生きるということです。しかし、私たちは日々の生活の中で、「疲れるほどに有意義な働きをすること」や「意味のある奉仕をたくさんすること」にこそ、人生の本当の意義があると思い込んではいないでしょうか。

もしそうだとしたら、それは私たちが神からいただく「安息」ではなく、自分が感じる満足や安心を求めているにすぎません。

例えば、年齢を重ねてきて、教会で以前のようにさまざまな働きや奉仕ができなくなった時、「もう何の役にも立てなくなってしまって心苦しい」「自分のような役立たずはここにいても仕方がないのではないか」などと、つい思い悩んでしまうことはないでしょうか。これは、ファリサイ派の人々が陥っていた考え方と全く同じものです。

私たちが日曜日に教会の礼拝を守り、信仰者として生きるのは、私たちが良い人間になるためでも、誰かの役に立つ人になるためでもありません。そうではなくて、神が独り子イエスさまによって惜しみなく与えてくださる救いにあずかり、まことの安息と休みをいただくためです。

それは、私たちの自己満足やプライドを満たすことによる安息ではありません。むしろ神は、私たちがそのような自己満足や誇りを満たすことを必死に求める思いから、私たちを優しく解放してくださるのです。

神の独り子であるイエスさまは、何の役どころか、神に迷惑をかけてばかりいる罪深い私たちのために、十字架にかかって死んでくださいました。そして、私たちのすべての罪を赦し、神の子として新しく生きる命を与えてくださったのです。

私たちは、有意義な働きも、意味ある奉仕も、何も持たなくてもよく、誰かの役に立つ人間であることの証明すら必要とせずに、ただ神の一方的な恵みによって今日を生かされ、明日へと歩み続ける力をいただいています。それこそが、神から与えられる本当の安息なのです。主の日の礼拝は、この深い安息を神からまっすぐにいただく大切な時なのです。

イエスさまは、私たちにこう語りかけておられます。

《疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである》(マタイによる福音書11章28〜30節)。

神は、独り子イエスさまを通して、私たちのために本当の安息を備えてくださり、私たちをその豊かな安息へと優しく招いておられます。この招きに信頼して、今日も安息の恵みの中を歩んでいきましょう。