昇天主日 説教
主の昇天
- 2015年5月17日(日)
- 昇天主日
- ルカ24章44~53
イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」
イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。
去る21日の木曜日は教会の暦では「昇天日」と呼ばれており、主の昇天を記念する日でした。主イエスの昇天については、本日の福音書朗読の後半に次のように語られています。
《イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた》(50〜51節)。
イエスさまの体がふわりと空に上っていった様子を思い描くと、何かとても不思議な感じがします。しかしもう一方で、そもそも復活したイエスさまがそこにいること自体が、人間の理解を超えた大いなる神秘なのですから、そのイエスさまが天に上げられたとしても、さほど不思議ではないと言えなくもありません。
実は、今日の聖書箇所において本当に不思議なことは別にあるのです。それは、弟子たちがイエスさまの昇天を悲しんだり寂しがったりしていないという事実です。
聖書には確かに「彼らを離れ」と書かれています。天に上げられるということは、弟子たちから離れることにほかならないのです。それは本来であれば、とても悲しい出来事ではないでしょうか。しかし、弟子たちはあの十字架の死において主イエスを失った時のように、再び絶望の淵で悲しみにくれるようなことはありませんでした。こう書かれています。
《彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた》(52〜53節)。
彼らは喜んでいました。大喜びでした。そして、喜んだだけではありません。主の昇天は、彼らを神殿へと向かわせ、礼拝へと向かわせ、そして何よりも神へと向かわせました。彼らは神を礼拝し、神を心から誉めたたえていたのです。
ここから、一つの大きな真理が鮮やかに浮かび上がってきます。主イエスが天に上げられるということは、弟子たちにとって、決して主が「遠くへ行ってしまう」という寂しい出来事ではなかった、ということです。
そうではなくて、むしろ逆に、主が上げられることによって、「天そのものが近くなる」という恵みの出来事だったのです。天が近くなり、神ご自身が近くなり、救いの世界がごく身近なものとなる。だからこそ、彼らは喜ばずにはいられなかったのです。天に向かわずにはいられず、神を礼拝せずにはいられず、神を誉めたたえずにはいられなかった。「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」のは、まさにそのためでした。
本日の第2朗読ではエフェソの信徒への手紙が読まれましたが、そこに「キリストの体」(エフェソ4・12)という言葉が出てきました。そこではキリストと教会の関係が、頭と体の関係として語られています。天におられる主イエスと私たち地上の教会は、頭と体のように、分かちがたく結ばれているのです。それはまた、天と私たちが分かちがたく結ばれているということも意味しています。
私たちは、主イエスが天に上げられたことによって、天としっかりと結び合わされている共同体なのです。それゆえに私たちは、どんな時にも天に向かって顔を上げて生きていくのです。いかなる意味においても、下を向いてうつむいて生きるのではありません。天に向かって顔を上げ、神を礼拝して生きる者なのです。
そして、何よりも喜ばしいのは、そのように天におられる主イエス、すなわち教会の頭であるキリストは、ほかならぬ私たちの罪を贖うために十字架にかかってくださったお方である、ということです。
私たちを愛し、私たちのためにご自身を献げてくださった方が、今、天におられる。そのことこそが、私たちが天に向かって顔を上げ、確かな希望を抱くことのできる唯一にして絶対の根拠なのです。そのことは、ここであえて強く強調しておく必要があります。
というのも、世の中を見渡すと、信仰とはまったく関係なく、何気なく天国について語る人が少なくないからです。「私は死ぬことなど少しも心配していませんよ。天国に行くだけですから」などと、いともあっさりと言ってのける人があります。そのような空気が漂う中で日々の生活を送っていると、いつの間にか、私たちが天を仰ぐことができるのは、イエスさまを通して与えられた特別な恵みなのだということを、私たちは忘れがちになってしまうのです。
少し考えてみてください。「天とあなたと何の関わりがあるか」と問われたら、イエスさまを抜きにして、私たちはいったい何と答えることができるでしょうか。天に顔向けができないような過ちや弱さを繰り返しながら生きてきた私たちが、いったい、いかなる根拠をもって天との関わりについて語ることができるでしょう。
私たち自身の現実を正直に見つめるなら、「私たちは天とは何の関わりもありません」と言わざるを得ない者なのです。そのような私たちが、なおも希望をもって天を仰ぐことができるとするならば、それはただ一重に、そこに主イエスがいてくださるからなのです。十字架にかかって私たちの罪を贖い、復活してくださった主が、教会の頭として既に天にいてくださるからなのです。
だからこそ、私たちは安心して天を仰ぐことができるのです。それゆえにまた、安心して地上の生涯を終えることもできるのです。頭であるキリストは既に天におられ、私たちはその体の一部であるからです。
さて、イエスさまが天におられるからこそ、私たちは安心して天を仰ぐことができるのだと話しました。しかし、物語や私たちの歩みはそれで終わりではありません。イエスさまは天に上げられる前に、地上のことについて、そして地上における弟子たちの務めについて、極めて大切なことを語られたのです。
ルカによる福音書24章の45節以下を見ていきましょう。
《そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。『次のように書いてある。「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる』」》(45〜48節)。
確かに、メシアは苦しみを受けられました。そして、死者の中から復活されました。そのようにして、この世のすべての罪の贖いを完全に成し遂げられたのです。
しかし、イエスさまが成し遂げてくださった罪の贖いの恵みは、ただそこに留まっているだけではいけません。人々のもとに届けられ、一人ひとりの手にしっかりと手渡されなくてはなりません。つまり、力強く宣べ伝えられなくてはならないのです。
だからこそ、「罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」と書かれているのです。では、いったい誰がそれを宣べ伝えるのでしょうか。もちろん、それは弟子たちであり、すなわち教会であり、ほかならぬ私たち自身にほかならないのです。
聖書には「罪の赦しを得させる悔い改め」と書かれていました。
この「悔い改め」とは、自分勝手な生き方をやめて方向転換をし、神にしっかりと立ち帰ることを意味します。私たちが神に立ち帰るならば、神は私たちの過去の過ちをすべて赦し、温かく迎え入れてくださる。それが「罪の赦しを得させる悔い改め」の真意です。
その意味は、ルカによる福音書にだけ記されている、あの有名な例え話の中に最も美しく表されています。いわゆる「放蕩息子のたとえ」と呼ばれるものです。
父親のもとを離れ、自分の力で生きようとした息子は、財産を放蕩の生活によってすっかり食いつぶしてしまいました。そして、大飢饉の中で飢え死にしそうになった時、彼ははたと我に返ります。私は本来いるべきところにいない。問題の根っこは、父のもとにいないことなのだ。その決定的なことに気づくのです。
そして、彼は方向転換をして、ボロボロになりながら父のもとへと帰っていきます。その時、父の家に近づいた彼が目にしたのは、遠くから走ってきて、首を抱きしめ、涙を流して迎えてくれる父親の姿でした。息子が立派な言い訳をするよりも前に、すべてを赦し、無条件で受け入れてくれる父の姿がそこにありました。
父親は、息子が帰ってくるよりずっと前から、すでに息子を赦していたのです。罪の赦しは、すでに父のもとに豊かに備えられていました。息子は父のもとに帰ってきて、ただその用意されていた赦しを受け取ったのです。
この福音こそが、今、宣べ伝えられなくてはなりません。既に贖いの小羊は屠られ、罪の贖いは完全に成し遂げられました。父のもとには、測り知れない赦しがあります。私たちが立ち帰るならば、父はあふれる赦しをもって迎え入れてくださいます。
父のもとにはこれほど豊かな赦しがあるのに、救いの道が用意されているのに、どうして私たちはいつまでも父に背を向けたまま滅びてよいでしょうか。あらゆる国の、あらゆる人々に、父のもとには豊かな赦しがあり、救いがあることを宣べ伝えなくてはなりません。「罪の赦しを得させる悔い改め」の知らせを、すべての人に届けなくてはならないのです。教会は、そして私たちは、その尊い恵みの言葉をしっかりと託されているのです。
主イエスは天に上げられました。しかし、だからといって、私たちは天ばかりを仰いで、地上を忘れていてはなりません。私たちはしっかりと地に足をつけ、地上に目を向けなくてはならないのです。地上に生きている間に、地上にいる人々に対して、伝えるべきことをしっかりと伝えなくてはなりません。
「私は死んだ後に、夜な夜な息子の枕元に現れてイエスさまを伝えることにします」などと言っていては決して駄目なのです。地上にある間に、地上においてしかできないことを、今しっかりと果たしておかなくてはならないのです。
しかし、もう一方で、それが決して容易なことではないことも私たちはよく知っています。そもそも、教会が託された範囲は「あらゆる国の人々」なのですから。私たちの身近な家族や友人にさえ、神の恵みを伝えることには数多くの困難が伴います。ましてや「あらゆる国の人々」となったら、どれほど高い隔ての壁を乗り越えなくてはならないことでしょう。人間の力だけでは、途方に暮れてしまうような大きな使命です。
それゆえにこそ、主は昇天の前にこう約束してくださったのです。
《「そして、わたしは父の約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」》(49節)。
この「高い所」とは、他でもない、主イエスが上げられた天のことです。そのように、主が天に上げられた後に、今度はその天からの力に、弟子たちがすっぽりと覆われるのだというのです。天に上げられた主が、聖霊をこの地上に惜しみなく注いでくださる。弟子たちは聖霊に満たされ、天からの力にしっかりと覆われる。それが父の約束であると、主は言われました。
この約束はいった何を意味しているでしょうか。それは、御国の働きを成し遂げるのは人間の小賢しい知恵や力ではなく、神ご自身の力なのだということです。
確かに、私たちは地上にいる間に、地上にいる人々に、伝えるべきことを伝えなくてはなりません。「罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」。それは、私たちに与えられた厳粛な務めです。
しかし、本当に大切なことは、私たちにその尊い務めを与えてくださった御方は、同時に、その務めを果たすために必要な力も必ず与えてくださる、ということです。実際、私たちはルカによる福音書に続く第2巻、『使徒言行録』において、神の力がダイナミックに生き生きと働かれた初期の教会の素晴らしい歩みを見ることができます。そして、その同じ聖霊の約束は、今日を生きる私たち一人ひとりにも変わらずに与えられているのです。
もし私たちが天にしか関心がないならば、このような天からの力は必要ないかもしれません。しかし、私たちが神の望んでおられるように、目の前にいる地上の人たち、私たちの家族、友人、地域の人々、この世の苦しみの中にある人々に関心を向けるなら、そして自分に与えられている務めを果たそうとするならば、天からの力は絶対に不可欠です。私たちは、神の聖霊の力にすっぽりと覆っていただかなくてはなりません。
来週は聖霊降臨祭です。主イエスの昇天を見つめ、弟子たちがひたすら聖霊に満たされることを求めて待ち望んだように、私たちもまた、聖霊に満たされることを祈り求めましょう。そして、上よりの力にしっかりと覆っていただきながら、この地上での愛と宣教の歩みを力強く進めていきましょう。