Sola Gratia

聖霊降臨後第8主日 説教

突風を静める

その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。

4章の書き出し、1節には次のようにあります。

《イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこでイエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆湖畔にいた》。

キリスト者とはどのような人かと問われたとき、今日の聖書に従って一つの答えを出すとするならば、「イエスさまの乗っておられる舟に乗せていただいて、共に向こう岸に漕ぎ出す人々」であると言ってよいでしょう。それは、イエスさまに弟子として召し出され、イエスさまに従いつつ共に歩むということです。イエスさまのなさる救いの御業の後に従って、一歩一歩歩んでいくのです。

キリスト者としてこの世に漕ぎ出していくとき、私たちはイエスさまと共に、御言葉に押し出されて新たに旅立ちます。しかし、それは何の苦労もない平穏な歩みなのではありません。時には嵐と言わざるを得ないような激しい困難を経験するのです。この世に出ていく中で、私たちはさまざまな苦しみと出会うことになります。

自分の家へと帰っていく群衆と、イエスさまと共に湖へと漕ぎ出す弟子たち。群衆には大きな難が及ばない一方で、弟子たちにはさまざまな困難が襲いかかります。弟子たちはどこへ行くのか分からないまま、「向こう岸に渡ろう」というイエスさまの促しに従います。行く先も知らずに旅立つその姿は、まさに信仰の父アブラハムのようです。

誰の人生にも、さまざまな苦しみや悲しみが起こります。しかし、信仰をもつ者にとって、その苦しみは時に人生の危機となります。苦しみや悲しみに重ねて、「神様は自分に関心がないのではないか」「神様は無力なのではないか」という深い絶望に襲われることがあるからです。

しかし、主イエスはしっかりと「共にいて」くださいます。舟が沈むことは決してなく、必ず向こう岸に着くのです。主は神の国の到来を表す御業を行ってくださり、自然界さえも治める権威を自分がもっておられることを示されます。

神の国は確実に前進しています。信仰とは、イエスさまが共におられることを信じ、たとえ神の国が今は隠されているように見えても、いつかは必ずあらわになり完成することを信じて、勇気をもってこの人生の船旅をする者となることです。

そのように漕ぎ出した弟子たちの舟を、突風が襲いました。4章の37節にはこう記されています。

《激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった》。

イエスさまの促しによって、イエスさまと共に漕ぎ出した信仰者の旅路には、このような苦しみが襲いかかります。それが私たちの日々の生活なのではないでしょうか。

けれども、本日の箇所に語られているこの突風は、誰の人生にも起こる一般的な苦しみや悲しみのことだけを指しているのではありません。この突風に遭うのは、まさに舟を漕ぎ出した人たちです。陸の上にいれば、突風によって舟が沈みそうになることはありません。

少し屁理屈のように聞こえるかもしれませんが、これはとても大事なことです。つまり、岸にいた群衆たちはこの突風や嵐には遭っていません。イエスさまの御言葉を聞いて、私たちに当てはめて言えば礼拝を守り、それだけで元通りの自分の生活へと戻っていった者たちは、この嵐に襲われることはないのです。

嵐に遭っているのは弟子たちです。御言葉を聞き、礼拝を守り、そしてイエスさまの促しによってイエスさまと共に漕ぎ出した者が、この嵐に遭うのです。つまり、この突風は、信仰者をこそ襲う嵐であり、イエスさまに従って旅立った者に襲いかかる嵐なのです。

それは別の見方からすればこういうことです。人生において誰もが体験するさまざまな苦しみや悲しみの嵐は、その人が信仰をもって生きている時にこそ、舟が沈みそうになるような本当の危機をもたらすのです。

信仰は、私たちに平安や安心を与えるという面もありますが、逆に人生の危機において私たちに本当の動揺をもたらすと言うこともできます。信仰をもって生きているからこそ、人生の苦しみは本当に深い危機となるのです。

弟子たちは、人生の歩みにおいて襲ってくる苦しみや悲しみという嵐のためにただうろたえたのではありません。その嵐の危機の中で、「イエスさまが何もしてくれない、自分たちの苦しみや恐れに気づいてさえもくれない。これではイエスさまはいないのと同じではないか。イエスさまを信じて旅立ったことは全く無駄なことで、かえって無意味な苦しみを背負うだけのことだったのではないか」と感じて動揺し、絶望にかられたのです。

私たちもまた、信仰をもって生きるからこそ、そのように激しく動揺し、うろたえることがしばしばあるのではないでしょうか。礼拝を守り、御言葉を聞いて、主イエスに従い、主イエスと共に歩み出したけれども、この世の現実にはさまざまな苦しみや悲しみがあり、不安があり、病や老いや死が襲いかかってきます。その嵐の中で私たちは、共にいてくださるはずの主を見失ってしまうのです。

イエスさまが本当に共におられるのかどうか分からなくなってしまう。「イエスさまが共におられるというのは嘘ではないか、あるいはいるとしても眠り込んでいて、私の苦しみや悲しみには全然気づいておらず、何もしてくれないのではないか」と思ってしまうのです。

それは、人生のさまざまな苦しみや悲しみの中で自分を支えてくれるはずである信仰そのものが揺れ動き、不確かになってしまうということです。ですから、それは単なる状況の苦しみや悲しみによる動揺とは次元の違う、より深くて深刻な、まさに私たちの舟を絶望の内に沈没させてしまいかねない事態なのです。信仰をもって主イエスに従っていくことの中でこそ、私たちはそのような深い動揺に陥るのです。

しかし、イエスさまは弟子たちの舟にちゃんと乗り込んでおられます。そして、神の国、神様のご支配の到来を表す御業を行ってくださるのです。39節には次のようにあります。

《イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、『黙れ。静まれ』と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった》。

イエスさまの一言で、激しい嵐はたちまち止んだのです。風を叱り、湖をも従わせるイエスさまの権威を目の当たりにし、イエスさまからの語りかけを受けた弟子たちは、「非常に恐れた」と聖書は伝えています。そして、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言いました。

彼らが覚えたのは、単なる嵐の恐怖とは違う、ある意味でもっと深い、根源的な恐れでした。その恐れは、「いったいこの方はどなたなのだろう」という問いとしっかりと結びついています。主イエスとは一体誰なのかという問いを、彼らはここで初めて真剣に抱いたのです。

彼らはそれまで、イエスさまのことが分かっているつもりでいました。だからこそ弟子となり、御言葉に従って漕ぎ出したのです。しかし今、自分たちが分かっているつもりでおり、勝手に期待していたのとは全く違うイエスさまが目の前に立たれたのです。

あの嵐の中で、彼らがイエスさまに期待していたのは、呑気に寝ていないで、起きて彼らと恐怖を分かち合い、舟を守るために一緒に水をかき出してくれることだったのではないでしょうか。しかし、イエスさまがしてくださったのはそんなことではなく、風を叱り、湖に命じて鎮めることでした。天地の造り主としての圧倒的な権威を行使してくださったのです。

そういう主イエスに直面して、彼らは非常に恐れ、「いったいこの方はどなたなのだろう」と問い始めたのです。この恐れの中でのこの問いこそ、信仰の歩みにおいて私たちが必ず直面し、またしなければならないことです。

信仰が深まるというのは、イエスさまのことをすっかり理解し、分かってしまうことではありません。分かってしまうということは、自分のものにしてしまうことであり、自分の心の引き出しの中にうまく整理して、必要な時だけ取り出せるようにすることです。それはむしろ、イエスさまをも自分の手の内に置き、自分の思い通りに支配しようとする罪にほかならないからです。

生きておられるまことの神であられる主イエスと本当に出会う時に、私たちはむしろイエスさまのことが分からなくなるのです。「いったいこの方はどなたなのだろう」と、深い恐れをもって問うようになるのです。その問いの中でこそ、主との本当の交わりが、そして真実の関係が生まれていくのです。この恐れと問いに直面するのは、まさに弟子となって主に従って歩んでいく者だけです。群衆は、このような深い恐れも問いも抱くことはないのです。

主イエスは弟子たちに、そして私たちにこう語りかけておられます。

《なぜ怖がるのか。まだ信じないのか》

私たちがこの世の嵐や荒波の中で怖がり、うろたえてしまうのは、信じていないからです。しかし、その「信じる」とは何を信じることなのかを、私たちは正しく捉えなければなりません。

信じるというのは、「自分は大丈夫なのだ、怖がらなくてもよいのだ」と自分に言い聞かせることではありません。あるいは、「怖がってしまうのは信仰が足りないからだ、どんな嵐の中でも決して怖がってはならないのだ」と自分を奮い立たせ、常に平静を保つように努力することでもありません。

「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」という御言葉によって、主は私たちにこう語りかけておられます。

「神の国を実現しようとしている私があなたと共にいる。私があなたを選び、召し出したことによって、あなたは私に従って来る弟子となり、私と共に旅立った。そのことによって、今は隠されている神の国、神のご支配が既にあなたを捉え、あなたを巻き込んで前進している。その神の国はいつか必ずあらわになり、完成するのだ。そのことを信じて、怖がらずに勇気をもって旅路を続けなさい」。

信仰をもって生きるというのは、このイエスさまの語りかけを素直に聞き、イエスさまが常に共にいてくださることを信じて歩むことです。自分自身の中に、どんな嵐にも動揺しないような確固たる何かを持つことでは決してないのです。

この恐れと問いを抱きつつイエスさまと共に歩む中で、弟子たちはある時には、「主イエスこそ神の子、救い主です」と告白する言葉を与えられました。しかし、そのように嵐に翻弄されている危なっかしい弟子たちの、そして私たちの舟に、イエスさまが確かに乗り込んでおられます。

イエスさまは、私たちがどんなに動揺し、うろたえても、神の国を実現する救い主としての歩みをしっかりと貫いていかれるのです。その歩みの行き着く先は、十字架の死と復活へと向かっていました。

主イエスが私たちのすべての罪を背負って十字架にかかって死んでくださり、罪と死の力に勝利して復活してくださったことによって、神の国、神様の恵みのご支配が、つまり私たちの救いが完全にとげられたのです。「いったいこの方はどなたなのだろう」という問いへの本当の答えは、まさにこの十字架と復活においてこそ与えられたのでした。

そのイエスさまが今、私たちの舟にしっかりと乗り込み、「共に向こう岸に渡ろう」と優しく語りかけておられます。私たちもまた、代々の信仰者たちに倣って、その主の御言葉に従い、主イエスが示してくださる向こう岸に向けて旅立っていく者でありたいと願います。

その旅路には、これからもさまざまな嵐が待ち受けているかもしれません。しかし、イエスさまご自身が乗り込んでおられるこの舟が沈んでしまうことは、決して、絶対にないのです。主の共なる恵みを信じ、希望をもって共に歩んでいきましょう。