聖霊降臨後第20主日 説教
離婚問答と子供の祝福
- 2015年10月11日(日)
- 聖霊降臨後第20主日
- マルコ10章1~16
イエスはそこを立ち去って、ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれた。群衆がまた集まって来たので、イエスは再びいつものように教えておられた。ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。イエスは言われた。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」
イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。
《ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った》(1〜4節)。
ここで問題となっているのは、夫が妻と離縁するという状況です。当時の社会では、夫は妻に対して圧倒的に強い立場にありました。そのため、夫のみが離婚する権利を持っていたのです。律法とは、イスラエルに与えられた神様の言葉です。ファリサイ派の人々は、神様の教えに照らし合わせるならば、離婚は果たして許されるのかどうかという疑問を投げかけました。
ファリサイ派の人々に対して、イエスさまは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返されます。当時、聖書といえばモーセの律法を含む旧約聖書のことですが、イエスさまはここで、聖書はそのことについて何と言っているのかと尋ねられたのです。ファリサイ派の人々は当時の宗教的指導者であり、聖書をよく読み、律法に精通していました。自分たちは神様の教えを深く理解していると自負していた人々です。
ではなぜ、律法に精通していると自負していた彼らは、このような質問をしたのでしょうか。ファリサイ派の人々はしばしば、イエスさまを試そうとして質問を投げかけました。自分たちは自分たちなりの律法解釈を持っていると自負していたからこそ、イエスさまがどのような教えを説くのか、お手並み拝見といこうという思いがあったのです。
また、この時、イエスさまの一行がおられたヨルダン川の向こう側の地方というのは、ヘロデ・アンティパスが支配していました。このヘロデは、自分の兄弟の妻を離縁させ、その妻と結婚していました。マルコによる福音書6章には、洗礼者ヨハネがそのことを咎めたことが原因で首をはねられたという事件が記されています。しかも、ヘロデはイエスさまのことを、あの洗礼者ヨハネが生き返ったのだと考えていました。
つまり、ヘロデの支配圏であるこの場所で、イエスさまが「離婚してはならない」と語るならば、それは非常に大きな意味を持つことになります。もし離婚は許されていないと明言すれば、場合によってはヘロデに目を付けられかねないという政治的な危険もあったのです。
イエスさまは、そのような人々の下心を見抜いておられました。だからこそイエスさまは、「あなたがたが日々読んでいる聖書は何と言っているのか」と、真っすぐに問い返されたのです。これに対して、ファリサイ派の人々は、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と答えます。
彼らがこのように答えたのは、申命記24章1〜4節に記されている教えに注目したからです。そこには再婚についての規定が示されていて、1節には次のようにあります。
《人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し家を去らせる》。
先ほども述べたように、当時離婚という権利は夫にのみ認められていました。ここで「離縁状」を書くという条件が付けられているのは、離縁状があることによって、その女性が社会的に守られ、再婚することができたからです。律法の中にこのような離婚や再婚を定めた規定があることから、彼らは「離婚することは律法に適っている」と主張したのです。
しかし、ファリサイ派の人々は、離婚で苦しむ人を救うためでもなく、夫婦のあり方に悩む人を慰めるためでもなく、ただイエスさまを試すという意図でこの問いを発していました。自分の主張に都合のよい聖書の教えだけを取り出し、「聖書は離婚を許しているのだ」という理屈をイエスさまに突きつけたのです。
このような態度は、いつの時代にも起こりがちなことです。聖書の言葉を表面的につまみ食いし、それを掲げて自分の正当性を主張する。しかし、イエスさまは彼らのその答えに対して、次のように告げられます。
《「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ」》(5節)。
この掟は、人間のどうしようもない頑なさゆえに例外的に認められたものであり、決して結婚の本質を語っているものではないというのです。
《「しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」》(6〜9節)。
ここで、イエスさまは創世記2章24節に記された御言葉を取り上げられます。創世記の2章には、人間が男と女に造られたことの深い意義が記されています。最初の人アダムを造られた神は、2章18節で「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」と言われました。
ここで「彼に合う助ける者」というと、一方的に仕える従属的な存在を想像してしまうかもしれません。しかし、ここで言われている「彼に合う助ける者」とは、お互いに向かい合い、助け合いつつ共に歩んでいく対等なパートナーを意味しています。
天地創造の初めから、神は人を男と女に創造され、そこで互いに向かい合って生きる者として引き合わせてくださいました。同等の男と女が父母を離れて一つのものになる、それが結婚なのです。ここで「一体となる」と言われているように、夫婦の全人格的な深い結びつきが見つめられています。一方が一方の所有物になるのではなく、自立した二人の男女が一つとされるのです。
ファリサイ派の人々は、離婚と再婚について定めた一部の律法の規定に注目し、「離婚は許されている」と主張しました。これに対してイエスさまは、天地創造の物語から、結婚の本質とは何であるのかを力強く示しておられるのです。
夫婦の関係は、キリストと教会が愛によって一つとされているのと同じような、深い結びつきです。教会がキリストの体の部分としてキリストに仕えていくように、また、キリストが十字架で命を捨ててまで人々を愛することによって教会と一つとなってくださったように、夫と妻もまた一つとなるのだと言われています。
そして、そのような関係は、人間が自分の力や都合で作り出すものではありません。アダムの下に神が女を連れてこられたように、神ご自身が結び合わせてくださったものなのです。したがって、その聖なる関係を、人間の身勝手な思いによって勝手に引き裂くことは決して許されないのです。そこでは、互いに忍耐し、すべてをささげて仕え合い、相手のことを我が身のように愛する関係が求められます。
《家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。イエスは言われた。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる」》(10〜12節)。
夫婦の関係は、教会がキリストを頭として従う時の奉仕と、キリストが教会を愛しご自身をささげた時の愛をこの世に示すものです。だからこそ、夫であれ妻であれ、自分勝手に離縁して再婚する者は、姦通の罪を犯すことになると主イエスは告げられます。
私たちはイエスさまのこの厳しい教えを聞いて、少なからず戸惑いを感じるのではないでしょうか。イエスさまのこのような言葉を、そのまま素直に聞き取ることができない自分に気づくのではないでしょうか。
私たちはこの世での生活の中で、どうしても離婚をせざるを得ないような、張り詰めた状況に直面することがあります。このことは、キリスト者であっても、あるいは牧師や伝道者であっても決して例外ではありません。実際に離婚を経験し、再婚の道を歩む人もいます。そして、そのような人間の愛の破れと痛みのなかで、かえって主に対する深い信頼へと導かれ、信仰が深められていく人がいることもまた事実です。
また、たとえ実際に離婚という事態に至らなかったとしても、自分の結婚生活が、キリストと教会の間を結んでいるような完全な愛で結ばれていると言い切れる人は、おそらく一人もいないのではないでしょうか。結婚生活に限らずとも、私たちは日々の暮らしの中で、人間の愛の限界や弱さを嫌というほど実感させられます。
また、私たちは信仰を与えられて歩む中でも、人につまずきを与え、自らもつまずきから決して自由ではありません。そのような私たちの現実を正直に顧みる時に、「離婚して再婚することは姦淫の罪である」という教えは、私たちに深い戸惑いやためらいを生じさせます。悪くすると、イエスさまのこの教えが、現実の生活とはかけ離れた、絵に描いた餅のような冷たいお題目になってしまうことすらあるのです。
ここで大切なことは、この御言葉を「裁きの律法」として聞かないということです。私たちの内に起こるイエスさまの教えに対する戸惑いは、まさにこの御言葉を律法として聞いてしまう時に起こります。
それは、あの時のファリサイ派の人々の聖書に対する姿勢と重なっています。イエスさまを試そうとして、聖書の文言を表面的につまみ食いし、自分の主張のために利用しようとしたファリサイ派の態度の中には、まさに「福音を律法として聞いてしまう姿勢」がそのまま現れていました。
人生の歩みの中でぶつかるさまざまな倫理的判断において、「聖書が許すのはどこまでのことか」と線を引こうとする。そして、聖書の言葉を自分なりに都合よく解釈し、それを守ることによって自分の正しさを証明しようとする。それが律法主義です。
そのような態度で聖書に接する時、人はたいてい、自分を正当化して裁き手になろうとするか、あるいは自分の周りの隣人の罪を神に代わって裁こうとするものです。表面的には聖書に立脚しているように見えても、それは福音の本質とは全く異なる結果を生んでしまいます。
イエスさまが「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ」と言われた時、その「心の頑なさ」とは一体何でしょうか。それは、結婚生活において神様の御心を見出すことができず、御心に適うような男女の関係を自らの力では維持していくことができないという人間の限界のことです。
しかしそれにとどまらず、この頑なさの本質は、「神の言葉を素直に受け入れることができない」という人間の罪深さにあります。このすぐ後に子どもに関する教えが続いていきますが、そこでイエスさまは、「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」(15節)と教えられます。
私たちは、神様の恵みの支配を告げる御言葉を、そのまま素直に受け入れることができない者です。ある時は自分を正当化するための律法として御言葉に接し、ある時は真摯に聞こうとするのではなく、イエスさまの語る言葉を疑いの目で聞いてやろうとする。そのような私たちの姿勢のなかにこそ、イエスさまが指摘される「頑なさ」があります。
その頑なさの中で、自分の主張に合う聖書の箇所ばかりを引き合いに出し、自分勝手に御言葉を利用して自らの思いを正当化する。その結果、御言葉が語る福音の本質を受け入れて生きることから、かえって離れていってしまうのです。
《イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された》(13〜16節)。
離縁についての議論の直後、マルコによる福音書は「子どもを祝福する」という心温まる場面を描いています。当時の社会において、子どもたちは一人前の人間として数えられず、社会的な権利も持たない、最も弱く無力な存在でした。そんな子どもたちを人々がイエスさまのもとに連れてきた時、弟子たちは「お忙しい主の邪魔をしてはいけない」と、それを追い払おうと人々を叱りました。
しかし、イエスさまは見かねて怒り、「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない」と優しく迎え入れられます。そして、子供たちをその腕に抱き上げ、彼らの頭に「手を置いて祝福された」のです。
聖書において「手を置く(按手する)」という行為には、非常に深い意味が込められています。それは単なる愛情表現や頭をなでる仕草ではありません。旧約聖書の時代から、手に力を込め、自分の持っている祝福や権能、そして尊い命の交わりを、相手にそっくりそのまま移し伝えるために行われた神聖な行為でした。
何の力も持たず、自分の誇るべき業績や正しさなど何一つない子どもたちが、今、イエスさまの腕に抱かれています。そして、イエスさまご自身の全幅の愛と祝福が、その小さな体に注ぎ込まれました。
子どもたちが神の国を受け入れることができるのは、彼らが何か立派な行いをしたからでも、聖書の知識をたくさん持っているからでもありません。ただ自分を無条件で受け入れてくれる方の懐に飛び込み、すべてをその方に委ねるその純粋な信頼ゆえにです。イエスさまは、人間が自分の力で神に近づこうとするのではなく、ただ神の愛にまるごと抱き留められることこそが神の国の本質なのだと、この子どもたちの姿を通して示されたのです。
ここで私たちは、「離縁について教える」という前半の場面と、「子どもを祝福する」という後半の場面の間に、見事なまでの共通事項を見出すことができます。
それは、どちらの場面においても「神が結び合わせてくださった=神から豊かな祝福を受けている」という関係性が中心に据えられているということです。
神は、天地創造の初めに男と女を造り、互いに向かい合う夫婦として結び合わせてくださいました。それは人間が勝ち取ったものではなく、神からの圧倒的な祝福の賜物です。同様に、子どもたちがイエスさまに抱かれ、手を置かれて祝福されたことも、子どもたちの功績ではなく、神が一方的に注いでくださる純粋な恵みでした。
つまり、神の祝福こそが、私たちのすべての歩みの土台であり、救いの根拠なのです。
聖書の教えを誤って捉えてしまうと、私たちはどうしても「どれだけ自分が立派に掟を守っているか」「どれだけ夫婦関係を正しく維持できているか」という人間の側の行いや努力に目を向けてしまいがちです。しかし、主イエスは律法を廃するために来られたのではありません。むしろ、人間が形骸化させてしまった律法の奥にある、神の命の御心を本来の形でしっかりと受け継ぎ、成就するために来られたのです。
イエスさまは、神の祝福を古い制度や人間の功績のなかに閉じ込めるのではなく、最も小さく無力な子どもたちにまで開かれました。そして、十字架へと向かうその歩みのなかで、ご自身の命を惜しみなく差し出すことによって、私たち人間が神から引き離されてしまった罪の淵から、再び神の祝福のなかへと連れ戻してくださったのです。
この私たちの頑なさのために主ご自身が十字架に架かられ、すべての罪を担ってくださいました。主イエスの語られる教えは、十字架の主のお姿と切り離して聞くことはできません。主の十字架の赦しを受け入れることなく御言葉に接するならば、私たちはたちまち聖書の言葉を自分や隣人を裁くための凶器にしてしまうか、あるいは現実離れした高尚なお題目にしてしまうことでしょう。
主イエスによってのみ与えられる十字架の赦しを受け入れつつ、その教えに耳を傾けるとき、私たちは自分の深い罪深さを知らされます。同時に、主がこの頑なな私のためにいかに大きな犠牲を払ってくださったのかという、測り知れない愛を知るのです。
そこで私たちは真の悔い改めに導かれ、新しく主の教えに聞いていく者とされます。その時、主イエスの教えは、私たちが自分の正しさを主張するための武器でもなければ、他者を裁くための基準でもなくなります。私たちを神様の愛に生きる歩みへと導く、いのちの道となるのです。
イエスさまがご自身のすべてを与えることによって示してくださった十字架の愛を受け入れ、そこから新しく歩み出す時、結婚という人間関係においても、また日々の暮らしの中でも、私たちは互いにこの愛に生かされ、一つとされていく恵みを体験します。キリストと教会が深い愛で結ばれているように、私たちもまた神の豊かな祝福のなかにしっかりと結ばれ、歩み続けることができるのです。