Sola Gratia

聖霊降臨後第5主日 説教

恐れずに言い表わせ

「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる。引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい。はっきり言っておく。あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る。

弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない。弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である。家の主人がベルゼブルと言われるのなら、その家族の者はもっとひどく言われることだろう。」

「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」

「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」

きょうの福音のマタイ10章は、十二人の弟子を使徒として福音宣教に派遣するにあたってのイエスさまの言葉です。神の国の福音を宣べ伝え、悪霊を追い出し、病人をいやす使徒たちの活動は必ずしも好意的に受け入れられるとは限らず(マタイ10章14)、むしろ、迫害を受けることが避けられない(10章17~23)ことをイエスさまは予告します。そして、その中でどういう態度を取るべきかがきょうの箇所で語られています。長い個所ですので、きょうは26節以下を中心に聴くことにします。

《人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている》。

「恐れるな」という言葉は、「明るみで言いなさい」と「人々の前でわたしを言い表わしなさい」で前後が囲まれています。この段落は、派遣される弟子たちに「恐れずに言い表わせ」と説いているのです。「言い表わす」ことこそ、弟子の使命なのです。

ここで「人々」とは、福音を受け入れず、弟子たちを迫害する者たちのことです。「覆われているもの」、「隠されているもの」についての言葉は、ここではイエスさまにおいてすでに隠れた形で来ている神の国(神の恵みによる支配)を指しています。「神の国」が現在すでに来ているというのは、イエスさまの中に隠された形で来ているのであって、これは世の人々が見ることができない「奥義」です。イエスさまの中に到来した「神の国」は、今は世界の不信と敵意の中に埋もれ隠されています。けれども、それは神の業であるから、必ず豊かな栄光の中に顕現することになります。今わたしたちがキリストにあって賜っている神の生命も、この朽ちるべき体の中に隠されていますが、それは必ず復活の栄光の中に顕れて、「神の国」は最終的に成就します。このように「神の国」は隠されているものが顕になるという形で到来するのです。このように、神の福音は空しく消えるものではなく、必ず実を結ぶものですから、わたしたちは迫害する者たちを恐れて、福音を証しすることに躊躇してはいけません。

日本語では「恐れ」と「畏れ」を書き分けますが、聖書では同じ言葉です。この段落の小見出し「恐るべき者」は、わたしたちが「畏れるべきお方、すなわち神」を意味しています。「人々を恐れるな、神を畏れよ」と言っているのです。人間は神の前で自分の小ささ・至らなさを感じるとき、それを「畏敬の念」と言ったりしますが、これはもちろん神が恐ろしい方だという意味ではありません。ここで神を畏れるというのは、たとえそれが強大な権力者であっても神以外のものに対する恐怖に打ち勝つこと、そして神のみ旨と信じることを実行できるようになることでした。

雀は食料として売られていましたが、貧しい人々が神に献げるいけにえでもありました。「二羽で一アサリオン」というのは、一羽では値が付けられないほどに安価なものということです。「アサリオン」はローマの少額銅貨で、今で言えば50円玉一つというところです。次の「髪の毛」の数を数えるのは、神にのみ可能なことです。一羽の雀のいのちさえ神が配慮しておられるのだから、ましてや「神の似姿」(創世記1章26)に従って造られた人間の生死にどれほど深い関心をもって見守ってくださることかと、全知全能の神を信頼するように勧めているのです。

ここで「恐れるな」とあるのは、終わりの時まで、迫害に耐えて待ち望みなさい、という意味です。「耐え忍ぶ」とは、苦しくとも我慢するということではなく、信仰に留まるという意味です。信仰に留まって、主を待ち望むこと、どこまでも希望に生きることです。

「恐れ」が問題になるのは、恐れのために、信仰も希望も見失って、人生の土台が揺らいでしまうときです。「恐れ」の問題は他にもあります。戦争をひき起こそうとする政府は、国民の恐怖心を煽ります。「何をされるか分からない。やられる前にやり返さなければ」という思いは、人を簡単に戦争や暴力に走らせるものです。「恐れ」が人の心から平安を奪い去り、富や権力、武力にしがみつくようにさせるのです。

《だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う》。

この言葉は、地上で弟子たちが受ける人間の裁きと、天上で神の前で受ける裁きがつながっていることを表しています。「イエスさまの仲間であると言う」、「イエスさまを知っている」とはどういうことでしょうか。マタイ7章21~23、25章31~46を見ると、ただ口先だけで「イエスさまを信じます」と言うことではなく、イエスさまの心に忠実に従って生きることだと言えるでしょう。

33節後半の「わたしを知らないと言う者」は、イエスさまを否むような弟子はいないはずだけれども、もしもそのような弟子がいたなら、という非現実を仮定する言い方です。ところが、イエスさまの十字架を前にして、それが現実に起こってしまいます。マタイ26章31~35でペトロの否認が予告され、69~75で「そんな人は知らない」と否認したことが記されています。

弟子の離反ということも、イエスさまにとって想定外のことではなく、そのこともお見通しだったようです。ルカ福音書の「ペトロの離反を予告する」記事では、イエスさまはこうおっしゃっています。《「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」するとシモンは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った。イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう」》(ルカ22章31~34)。ですから、裏切りはあってはならないことですが、裏切られても弟子のために祈っておられる、そして立ち直ると弟子を信じているイエスさまがいらっしゃるということは覚えていましょう。人間の弱さと失敗は、イエスさまの祈りと赦しに支えられているのです。

最後に、「信仰を言い表わす」ということが、わたしたちにとってどのような意味を持っているかについて考えてみましょう。

人間を人間とするものは言葉です。人間は言葉によって考え、知識と知恵を蓄え、感情を伝え、他者と関わり、人間として生きています。わたしたちは人生で、一つの言葉が生きる喜びや希望を与えたり、苦悩や絶望をもたらしたり、人を結びつけたり引き裂いたりすることを体験しています。人が自分の存在の意味を自覚するのも言葉によります。人がどのような言葉を見出し、どのような言葉を内に抱いて生きるかによって、その人の人間としての中身が決まります。言葉は決して空しいものではありません。言葉は人間を決める力です。

福音は言葉です。それは人間によって語られていますが、神が遣わされた人によって世に与えられた神からの言葉です。それは、それを聴いて、その言葉を信じる人、すなわちその言葉を自分の内に抱いて生きる人を、造りかえ、新しいいのちに生きるようにする力です。

「信仰を言い表わす」ことは、福音の言葉を「聞くこと」に始まります。パウロが、《実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです》(ローマ10章17)と言うとおりです。福音は、歴史の中で起こったイエスさまの出来事を、神の無条件絶対の恵みとして宣べ伝えています。この良い知らせを受け入れ、イエスさまを主であると口で言い表して、主イエスに全存在を投げ入れる者は、恩恵により聖霊を与えられて、救いの現実を体験します。このことを、パウロは、《口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われます》(ローマ10章9)と言い表わしています。

この信仰は、自分の確信とか誠意とか忠誠の問題ではありません。福音が聞く者に求める信仰とは、そういう自分の側の信じる能力を放棄した場で、ひたすら神の恵みによる支配に身を委ねる姿勢です。人が信じることも、それを言い表わすことも神の恵みによるのです。パウロはその事情をこう説明しています。《ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです》(第一コリント12章3)。

聖霊よ、来てください。主イエスよ、来てください。アーメン