Sola Gratia

聖霊降臨後第7主日 説教

わたしのもとに来なさい

そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

《25 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。26 そうです、父よ、これは御心に適うことでした。27 すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません》。

この語録は、イエスさまをイスラエルが拒否する物語の間に置かれていて、イエスさまを拒否したユダヤ教会堂の指導者たち(知恵ある者や賢い者)とイエスさまの弟子たち(幼子)とが対照されています。

当時の「知恵ある者や賢い者」というのは、ユダヤ教律法に精通した律法学者階級の人たちを指していました。そういう人たちにではなく、漁師や徴税人のような階層出身の弟子たち、律法の知識や訓練という点では幼児にすぎない弟子たち、そしてイエスさまに対して幼児の信頼をもって従う弟子たちに、「これらのこと」が啓示されたというのです。「これらのこと」とは、直後の27節に語られている事柄、すなわち子(イエスさま)が啓示する父の奥義を指していると理解してよいでしょう。

27節は本来、父親が秘伝の技術を息子だけに伝えるという職人の家業継承を比喩として用いているにだそうです。おそらく本来は「すべてのこと(秘伝)は父親からわたしに任せられています。父親のほかに息子を知る者はなく、父親(のすべての技術)を知る者は息子と、息子が知らせようと欲する者以外にはありません」という比喩であったのでしょう。イエスさまを父なる神の子であると宣べ伝える弟子集団が、これをイエスさまだけに与えられた神の啓示を語る語録として伝えたと見られます。神が御自身を啓示しようとされるとき、イエスさまはご自分が子として、すなわちただ一人神に知られ、かつ神を知る者として、世に神を啓示する者であると宣言しておられるのです。復活されたイエスさまの、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」(28章18)という言葉も、同じことを意味しています。

幼子に与えられる啓示(25~26節)と息子だけに任される父の秘伝のたとえ(27節)の二つの語録が一つにされることによって、神の啓示は、律法に精通した「知恵ある者や賢い者」にではなく、子であるイエスさまと、イエスさまに従う幼子のような弟子たちに与えられていることを主張する語録になっています。そして、「これは御心に適うことでした」の一文によって、少数の弟子以外の「知恵ある者や賢い者」がイエスさまを拒否したことは神の御計画から出たことであり、いま弟子集団がユダヤ人社会から排斥されて孤立している現実は、けっして彼らの活動の失敗ではなく、人間的にはそう見えるにしても実は、神の大きな御計画の一部であると受けとめられているのです。

「知恵ある者や賢い者」は、律法に精通していることから、律法だけに立とうとする姿勢を変えることができず、律法を超えて与えられる啓示、すなわちイエスさまが告げ知らせる神の恵みによる支配を拒否したのです。これはユダヤ教社会に起こったことですが、ユダヤ教以外の世界でも同じことが起こります。使徒パウロは異邦人についてまったく同じことを言っています。自分の知恵や知識に頼る者たちは、人間の知恵には愚かさの極みである十字架の福音を受け入れることができません。知者たちに拒否された十字架の福音は、ひたすらこれを信じる幼子たちに受け入れられて救いへ至らせる神の力となるのです。神がそう定められたからです(第一コリント1章18~29)。

人間の救済に関わる神の御旨とか御計画は、賢者といわれる人たちが懸命に探求しても、神が隠しておられるのですから、知ることができない「秘密、奥義」でした。その奥義が今イエスさまの名によって福音を告げ知らせている弟子たちに、すなわちガリラヤの漁師など市井の民に、その福音の言葉によって神が働かれる出来事の中で啓き示されているのです。

《28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」》。

この語録は他の福音書にはなくてマタイだけにあり、マタイの特色をよく示しています。まず、「柔和な」という形容詞はマタイお気に入りの用語の一つで、新約聖書の4回の用例の中、3回までマタイ福音書に出てきます。ほかの2例は、祝福の語録「柔和な人たちは幸いである、その人たちは地を受け継ぐ」(5章5)と、イエスさまのエルサレム入城をゼカリヤ9章9の預言の成就とする引用「柔和な方でろばに乗り」(21章6)です。イエスさまこそ神の祝福を受け継ぐ「柔和な人たち」の原型なのです。

マタイが「柔和な」という語を用いるとき、どのような意味で用いていたかは、イエスさまの時代からマタイが福音書を書いた時代までのユダヤ人社会の背景の中で見ると、その特徴がよく浮かび上がってきます。

この時期のパレスチナのユダヤ人社会は、熱心党の運動がだんだんと浸透し、神の支配をもたらすためには神の民が立ち上がり、武力を用いてでも異教徒であるローマの支配を覆さなければならないという気運が強くなっていました。そのような流れの中で、「敵を愛しなさい」とか、「悪人に手向かうな」というような精神に生きたイエスさまとその教団は、まったく特異な集団であったといえます。民族主義の宗教的熱気が高揚した時代に、ひたすら万民に対する無差別絶対の神の憐れみだけに信頼して、非暴力無抵抗の道を歩んだイエスさまとその民の姿を、マタイは「柔和な」という形容詞で描くのです。

イエスさまがこのような非暴力無抵抗を説かれる背後には、父なる神の絶対無条件の恵みの宣教があります。イエスさまが説かれた「御国の福音」の核心は、父なる神の無条件絶対の恵みによる支配の告知にあります。これをイエスさまご自身の言葉で要約すれば、「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」(ルカ6章36)となります。人間がどれだけ神の定めを守っているか、どれだけ立派な生活をしているか、どのような集団に属しているか、どれだけの価値や資格があるか、等にいっさい関係なく、神はわたしたちを神の子として受け入れてくださるのです。これが神の恵みであり憐れみです。人間はこの神の慈悲によって存在し生きるものですから、隣人に対しても同じ慈悲をもって生きなければならなりません。相手が自分に対してどのような関係にあるかに関わりなく、たとえ敵であっても、慈悲深くなければならないのです。

この慈悲が「柔和さ」の源泉です。「柔和さ」は慈悲の一つの現れ方です。パウロも聖霊の実としての愛の諸相を語るとき、その中に「柔和」を上げています(ガラテヤ5章22~23)。慈悲は力づくで自分の主張を押し通すことはありません。苦しみや損失を自分の方に引き受けてでも、相手のために祝福を祈ります。このような柔和さが、イエスさまと同じ霊によって生きる者たちの性格となります。

もう一つのマタイの特色は、「軛を負う」という表現です。「軛(くびき)」は荷車や農具を引かせるために、2頭の牛(またはロバ)を横につなぐものですが、一般に「奴隷の軛を負う」とか「(外国)支配の軛を負う」というように象徴的によく用いられていました。中でもユダヤ教では特別の意味合いでよく用いられていました。すなわち、神の民であることは「天の王国の軛を負う」こととされ、それは具体的には「律法の軛を負う」ことで実現するとされていました。「律法の軛を負う」というのは、律法を順守する責任を負うということです。もとともユダヤ人にとって、これは重荷ではなく選ばれた民の特権であったのですが、イエスさまの時代のユダヤ教は律法学者たちの言い伝えを積み重ねて、礼拝と生活の煩瑣な数多くの規定を守る義務となり、一般の庶民には「負いがたい重荷」になっていました(23章4)。

イエスさまは(そしてイエスさまの語録を用いてマタイは)このような重荷を負って苦しんでいる周囲のユダヤ人に呼びかけるのです。「疲れた者、重荷を負う者」というのは、(マタイの文脈では)「律法の軛」という重荷を負って苦しみ疲れている人たちを指しています。そのような人たちに、イエスさまは「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」と呼びかけられます。そうすれば、あなたがたは魂に安らぎを得られる、と約束されるのです。

ここでの「わたしの軛」は「律法の軛」と対照されています。多くの律法規定を守るように義務を課せられているユダヤ人に、イエスさまの弟子となって、イエスさまの言葉だけに従って生きるようにすれば、律法の重荷から解放されて、魂に休みを得ることになると呼びかけているのです。イエスさまは子として父のすべてを委ねられた方ですから、イエスさまに従うことが父の御心を行うことになるのです。その上、イエスさまは柔和でへりくだった方、すなわちご自身が父の慈愛だけに生きる方であり、自分のために何も求めない方ですから、イエスさまに従うのは無条件の慈愛に生きるという根本律以外に煩瑣な規定はありません。この意味で、「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」と言われるのです。

このように、この語録はもともと「律法の軛」を負っているユダヤ人に、イエスさまの弟子となって平安を得るように呼びかけているのですが、もちろん、これはすべての国民、すべての時代の「疲れた者、重荷を負う者」に対する呼びかけでもあります。イエスさまは復活の救い主として、ご自分のもとに来る者を、人間にとって究極の重荷である罪と死の問題から解放して、魂に平安を与えてくださるのです。

「わたしの軛を負いなさい」という言葉は、軛が2頭立だと知ることも大切です。イエスさまは自分が軛の一方を負っているから、あなたは軛のもう片方に繋がれなさいと呼びかけておられるのです。イエスさまは「わたしはあなたの重荷を共に担う」と言ってくださっているのです。このような道を備えてくださった憐れみ深い神に感謝し、御名を賛美したいと思います。