Sola Gratia

聖霊降臨後第3主日 説教

マタイを弟子にする

イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

きょうの個所は、徴税人マタイが弟子として召された出来事(9節)と、彼の家での食事の情景(10~13節)の二つから成り立っています。マタイが召された時の様子はたった一節で語られており、召された者がただちに従って行った様子はペトロなど最初の弟子たちの場合(4章18~22)と同じです。ただマタイの場合は彼が徴税人であるという点が重要な意味を持っています。イエスさまが徴税人を弟子の一人として選ばれたことは何を意味するのか、そのことが続く食事の席の情景と批判者に対するイエスさまの言葉によって明らかにされます。

《イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った》。

《イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町(カファルナウム)に帰って来られた》(9章1)のですが、ふたたび「そこをたち」、次の町に出かけられます。そして、「通りがかりに、マタイが収税所に座っているのを見かけて、『わたしに従いなさい』と言われた」のです。

この収税所に座っていた人を弟子として召された記事はマルコ福音書2章13~17と同じですが、その人の名前が違います。マルコでは「アルファイの子レビ」、ルカ5章27も「レビ」という名ですが、マタイでは「マタイ」です。マタイとレビが同一人か別人かは分かりませんが、徴税人が弟子として召されたことが重要です。このことの意義が、続く宴席の場で語られます。

当時の税には、直接税(人頭税と土地税)と間接税(通商される物品にかかる税や道路や橋を通る税など)の二種類がありました。直接税は任命された役人が徴収しますが、間接税は一定地域の徴税権を最高額で競り落した請負人が徴収に当たります。この請負人が「徴税人の頭」であって、実際の徴税はその下請けの「徴税人」にさせます。ルカ福音書19章のザアカイはエリコの地区の「徴税人の頭」であって、数人の部下の「徴税人」を持っていました。マタイはこのような「徴税人」のひとりでした。

「徴税人の頭」とその下請けたちは、請け負った一定金額をローマ総督やヘロデ王家に収めればよいのですから、請け負った額以上の税金を徴収して私腹を肥やすのが常でした。そのような職業の不道徳性と、異教の支配者に仕え、異教徒との接触から祭儀的に汚れていることなどから、ユダヤ教社会では盗賊や詐欺師と同列で、村八分のような扱いを受けていました。

カファルナウムの町を出て、湖沿いに少し行かれると収税所があります。カファルナウムは交通の要衝ですから、その近くに収税所が置かれ、交易される物品に対する関税や通行税を徴収していました。そこの「収税所に座って」税を徴収していたのがマタイでした。

《イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた》。

この食事が日常の食事ではなく、宴席または祝宴という性格のものであったことは、「食事をしておられた」という動詞が「横になる」という宴席での用語であることからも示唆されています。おそらく、マタイはイエスさまのような神の人が徴税人である自分を弟子として受け入れてくださったことへの喜びと感謝から、また徴税人としてのこれまでの生涯に訣別することを世間に知らせるために、人を喜ばせる大盤振る舞いをしたのでしょう。

ここで「罪人」というのは、法律に違反した行為で裁判を受けた犯罪者とか前科者という意味ではなく、ユダヤ人社会で、神がイスラエルの民に求めておられる律法の基準からして、神の民としての資格のない者、ユダヤ社会の除外者という意味です。個々の行為が人を罪人とするのではなく、職業とか立場が人を「罪人」とするのです。「徴税人」はその典型です。そのほか遊女とか高利貸しなど、その職業と社会的立場にあること自体が、ユダヤ教律法の基準に達することができないものとして、「罪人」というレッテルを貼られて差別されます。これは、律法遵守を神の民の要件とするユダヤ教特有の差別概念です。

福音書において「徴税人と遊女」、「徴税人と罪人」、あるいは単に「罪人」と呼ばれている人たちは、このような社会階層の人々であり、当時のユダヤ教の指導的立場にいた律法学者やファリサイ派の人たちからは「地の民」と呼ばれ、律法の知識なく、道徳的にもいかがわしい連中として軽蔑され、汚れた民、救いには縁のない民として見捨てられていたのです(ヨハネ7章49)。

《ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った》。

食事を共にすることは、その人たちの仲間であることを示す行為です。ファリサイ派の人たちは、律法を順守する自分たちは「正しい人」であるとして、律法を知らないか守らない異邦人やイスラエルの中の「罪人」たちとは決して食卓を共にしませんでした。それは、彼らの汚れを身に受けることになるからです。

そこで、ファリサイ派の人々はイエスさまが徴税人と食事をされるのを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言うことになるのです。これは厳しい詰問であり非難の言葉です。彼らにとって、徴税人を弟子にしたり食事を共にするというようなことは、もはやその理由の釈明を聞いたり議論したりする段階のものではなく、公然たる律法違反であり、ただ非難と敵意に値するものです。いくら病人を癒したり悪霊を追い出すような奇跡を行っていても、神の律法に違反している者が神の僕であるはずがないのです。

《イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」》。

この非難の言葉を聞かれたイエスさまは、一つの比喩を用いて御自身がしておられることの意義を語られました。医者は丈夫な人のところに来るのではなく、病気の人のところに来て、苦しんでいる人を助けます。そのように、わたしが神から遣わされて世に来たのは、あなたたち「正しい人」を神に国に招き入れるためではなく、あなたたちが「罪人」と呼んで神の国から追い出している人たちを神の国の恵みに招き入れるためである、とイエスさまは言っておられるのです。あなたたち「正しい人」は、自分の正しさで満ち足りているとして、わたしがもたらす神の恵みを必要としていない人たちだ。それに対して、あなたたちが「罪人」と呼んで神の国から排除している人たちは、わたしがもたらす神の恵みがなければ神の前に立てない人たちだ。彼らは、病人が医者を必要としているように、わたしの中に到来している神の無条件絶対の恵みが必要なのだ。わたしは、この神の無条件絶対の恵みをたずさえて、彼らを招くために来たのだ、とイエスさまは宣言されます。ホセア書6章6からの引用《わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない》は、このイエスさまの言葉が聖書の真意を実現するものであることを証明しています。

このように、イエスさまがもたらされた「神の国」が「神の恵みによる支配」であるならば、恵みが招くのは「罪人」たちになるのは当然です。自分で「正しい人」だと考えている人たちには無縁です。「正しい人」たちは、あの「罪人」たちと同列に、ただ神の恵みによって扱われることに耐えられません。それでは、自分たちが律法を順守して正しさを追求している努力は無意味になります。自分たちの宗教的価値を否定する「神の恵みによる支配」を唱えるイエスさまを許すことはできません。厳しく批判し、憎み、ついには死に追いやることになります。

ところで、医者の比喩は、イエスさまが来られたのは「罪人」を招くためであることだけ説明しているのであって、これを、医者は病人を丈夫な人へといやすように、イエスさまは「罪人」の心を入れ替えさせて「正しい人」にするために来られたと考えるならば、それは誤解です。ルカ5章32《わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて「悔い改め」させるためである》はしばしばそのように誤解されています。「悔い改めさせるため」という句が「正しい人」とか「罪人」という用語で語られる文の中に出てくるため、イエスさまの言葉がそのように理解される危険があります。しかし、それでは、ファリサイ派の人々の考えと同じことになってしまいます。

イエスさまの神の国の告知は神の無条件絶対の恵みの告知であるという基本的な理解からすれば、ここの「悔い改め」は、預言者たちが叫んだ「立ち帰り」の意味に理解しなければなりません。すなわち、今や神の無条件絶対の恵みが現れたのだから、自責や絶望というような自己の殻の中に閉じこもっていないで、立ち上がり、自分から出て、神に立ち帰り、この神の恵みに自分を投げ入れなさい、という意味に理解しなければなりません。

イエスさまは徴税人マタイを招いたように、いまも「罪人」のわたしたちを招いてくださっています。わたしたちもまたその招きに応えて、身を翻して神が無条件で備えってくださっている神の国の祝宴へと向かいましょう。そして、神の恵みに立ち帰ることをゆるされた喜びと感謝をもって、この新しい一週間を歩んでまいりたいと思います。