聖霊降臨後第2主日 説教
御心を行う者
- 2014年6月22日(日)
- 聖霊降臨後第2主日
- マタイ7章15~29
「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」
「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」
「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。
きょうの個所は「山上の説教」(マタイ福音書5~7章)の結びです。山上の説教は、《心の貧しい人々は幸いである》という祝福の言葉に始まり、神の祝福・救い・ゆるしを受けた人が、どのように生きるべきかを教えています。もともとは、新しく信者になった人々にキリスト者としての新しい生き方を指し示す教えとして、ここにイエスさまのさまざまな語録が集められたようです。
きょうの個所はその結びの教えであって、三つのたとえからなっています。第一は「狭い門と広い門」、第二は「良い実を結ぶ木と悪い実を結ぶ木」、第三は「岩の上に建てられた家と砂の上に建てられた家」のたとえです。いずれも、山上の説教の言葉を行う者と行わない者が対照され、ここで聞いた言葉を行うようにと強く勧めて、全体が締めくくられます。
《偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である》。
福音宣教の最初期には、イエスさまの伝道スタイルに従って、霊能の預言者たちや教師たちが巡回しながら、教えたり、祈ったり、病をいやしたりしていました。イエスさまを信じる民は、このような人たちによって指導されていたのです。彼らの中には「偽者」がいたようです。「あなたがたのところに来る」という言葉があるように、マタイの教会もこのような巡回してくる預言者の働きを受けていました。
マタイは偽預言者を「羊の皮を身にまとった狼」と言っています。彼らは羊の皮を身にまとって、自分も羊の群の一員である、イエスさまの弟子の群に属する者であると見せかけていますが、実質は羊を食い荒らす貪欲な狼であるというのです。偽預言者は、イエスさまの弟子を自分の弟子にして、自分の野望を満たすための道具とし、教会の一致を破壊し、羊を滅びへと連れ去るのです。
《あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける》。
マタイは偽預言者を見分ける規準として木とその実のたとえを用います。「あなたがたは、その実で彼らを見分ける」という句で囲み込み、「すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない」という原則を明示します。
《わたしに向かって、「主よ、主よ」と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、「主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか」と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。「あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ」》。
偽預言者は「主よ、主よ」と言い、「御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行った」人々でもあります。実際には、このような人々を偽預言者であると見分けるのは難しいかもしれません。しかし、預言も奇跡もそれだけでは「良い実」ではありません。「良い実」とはただひとつ、「わたしの天の父の御心を行う」ということです。このことは、預言者や教師たちを見分ける規準であるだけでなく、すべての信徒に当てはまるものとして、ここに書かれているのです。では、「天の父の御心」とは何でしょうか。山上の説教の中でこう語られています。
《敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである》(5章44~45)。
《このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である》(7章11~12)。
これらの個所には、非常に明確に「父である神の御心とは何か」が示されています。しかし「神の御心がこれであるから、人間的に努力してこの御心を実行しなければならない」というだけではない面がここにはあります。むしろ、「神がその御心をもってわたしたちを限りなく愛してくださった。その愛を受けたからこそ、わたしたちは神の御心を行うべきだし、行うことができる」という面があるのです。イエスさまはわたしたちが律法を守ることができない、弱い者であることをご存じで、疲れた者、重荷を負う者を天の国、つまり神の恵みのご支配のもとに招いてくださいます。神の国とか永遠の命に入るのは、律法を守り行う者ではなく、神の絶対無条件のみ恵を砕かれた心で無条件に受ける者であるという良い知らせこそイエスさまの福音です。
「恵みによって救われる」、「その恵みを受け入れる信仰によって義とされる」というのはキリスト教信仰体験の核心です。その意味で、「信仰」とは、あなたがイエスさまを信じることではなく、イエスさまがあなたに働きかける「信実」のことだと言われます。「恵み」はイエスさまの信実を通してあなたに「信仰」をもたらし、「信仰」はあなたに良い実、愛の業をもたらします。わたしたちの行いに先立つ神の恵みがなければ、自分の力で律法を守り、神の前に自分を誇ろうとしたファリサイ派と同じ落とし穴に落ち込んでしまう危険があるのです。
神の恵みのご支配のもとで生きるとは、自分が父の恵み、すなわち無条件絶対の慈愛によって生かされているのですから、自分の隣人を同じ無条件の慈愛をもって受け入れ愛するという場に生きることです。イエスさまが《あなたがたの天の父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい》(ルカ6章36)と言われた通りです。ですから、マタイが「わたしの天の父の御心を行う者」というとき、それは「父が憐れみ深いように、憐れみ深く生きる」ことです。このように理解すると、マタイが「父の御心を行う者だけが天の国に入る」と主張するのは、決してユダヤ教の律法主義に逆戻りしているのではなく、あくまで神の恵みのご支配を現実にも貫こうとしていることが分かります。
《そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった」》。
このたとえは、「聞いて行うか、聞くだけで行わないか」を鋭く問いかけます。土台である「岩」は「イエスさまの言葉を聞いて行う」ことです。このイエスさまの言葉は、天の父の御心を現し、その御心を行うように教える言葉です。では「家」は何でしょうか。自然に考えれば、わたしたち一人一人の生き方ということになるでしょう。
イエスさまの言葉を「行う」というのは、律法とかその他の規範に従う個々の行為をするという意味とは違って、「生きる」と言う方が適当でしょう。イエスさまの言葉が指し示す道を実際に歩み、自分の思想と人生の全体をイエスさまの言葉に従って形成することです。その時、わたしたちの人生はどのような試練や苦難が襲ってきても、それを乗り越える知恵を宿す人生になるのです。それは、これらの言葉が語っていたように、父の慈愛と信実が現実にその人の人生の土台となるからです。その人生は岩の上に建てられたものになります。それに対して、わたしたちがイエスさまの言葉を聞くだけで生きることをしなければ、わたしたちの人生は、父の慈愛とか信実に関わりなく、わたしたち自身の力に任されてしまいます。人間の弱さを考えると、自分の力と知恵だけに委ねられた人生は脆いものです。それは砂の上に建てられた人生です。
《イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである》。
「イエスはこれらの言葉を語り終えて」という言葉は、山上の説教がここで終わったことを表わしています。
律法学者は書かれた律法(モーセ五書)と父祖たちの言い伝えを解釈しなおして民衆に教えていました。それに対して、イエスさまは「あなたがたも聞いているとおり、昔の人はこう命じられている。しかし、わたしは言っておく」と、自分自身を権威として語り、昔の人が聞かされていたモーセ律法の権威を超えるものであるとされました。モーセ律法を至上の権威としていたユダヤ人には大変な驚きであったわけです。イエスさまは古い文書や伝統の権威によって語るのではなく、御霊によって生き、御霊によって力ある業をなしておられるご自身の現実から語り出しておられるので、聴く者に圧倒的な権威を感じさせるのです。
今もイエスさまは、わたしたち一人ひとりに、「わたしは言う」と語りかけておられます。日々、「み心が天で行なわれるように、地上でも行われますように」と祈りつつ、イエスさまのお言葉に耳を傾けて歩みましょう。