Sola Gratia

復活後第1主日 説教

聖霊を受けなさい

その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

先週は篠塚先生が説教を受け持ってくださって、復活祭を祝いました。聖書はヨハネ20章1~18でした。週の初めの日、朝早く、マグダラのマリアがイエスさまの遺体が納められた墓の蓋が取り除けられているのを見たところから始まりました。今日の個所はその続きで、《その日、すなわち週の初めの日の夕方》の出来事です。ここで弟子たちも、マリアと同じく「主」を見ることになります。

《その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。》

弟子たちが《ユダヤ人を恐れて》家の中に隠れて閉じこもったのは当然です。師であるイエスさまがユダヤ教の最高法院で死罪に当たるとされ、ローマへの反逆罪で死刑判決を受けて処刑されたのですから、残党である弟子たちはユダヤ教の権力者からもローマ軍からも厳しい探索の目を向けられていたことでしょう。

《弟子たちはユダヤ人を恐れて》という表現についてですが、「ユダヤ人」という言葉はヨハネ福音書の独特の言葉遣いの一つです。弟子たちもみなユダヤ人でしたから、この言葉がユダヤ人一般を意味するのではなく、ある特定のユダヤ人勢力を指していることは明らかです。つまりヨハネの「ユダヤ人」は、イエスさまに敵対する、当時のユダヤ教指導者層やファリサイ派の人々を意味する言葉です。

《そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。》

イエスさまを《主》と呼んでいます。福音書はイエスさまについて、「イエス」と「主」という言葉をはっきりと使い分けています。十字架と復活前の、地上を歩まれたイエスさまを「イエス」と書き、そして復活した後のイエスさまを「主」と書くのです。「主」という言葉は、旧約聖書では、万物を創造した神を被造物である人間が崇めて呼ぶ言葉でした。新約聖書では、十字架の贖いを成し遂げて復活し、神の独り子として信じる人々に現わされたイエスさま、天に昇り神の右に座しておられるイエスさま、そこから信じる人々に聖霊を送って力づけてくださっているイエスさまを「主」と呼んでいます。「主」は、イエスさまが地上を歩まれる神であると認め崇める、イエスさまの呼び名、尊称です。

ただし、ヨハネ福音書は、イエスさまが地上を歩んでおられるときも、「イエス」と名指しつつ、この世に降り立った神である方「主」として描いているという特徴があります。福音書の最初から、弟子たちは事実上、復活された主イエスさまに出会っているのです。二千年前のユダヤという制約を超えたイエスさまに出会えるのがヨハネ福音書の魅力です。

家の中に隠れている弟子たちのところへイエスさまが来て、真ん中に立ちます。復活したイエスさまは時間と空間を超越した方ですから、戸をすり抜けてきたと考える必要はありません。イエスさまは《あなたがたに平和があるように》と言います。これは普通のあいさつの言葉(ヘブライ語なら「シャローム」)でもありますが、後でも繰り返し記されているところを見ると、よほど印象的な言葉だったと言えるでしょう。

弟子たちは「ユダヤ人たち」を恐れて閉じこもっていたのですが、実は「ユダヤ人たち」よりももっと恐れるべき方、イエスさまが突然に目の前に現われたのです。裏切った相手と不意に出会うとは、弟子たちはどんなに恐れたことでしょう。

もちろん、イエスさまに対する裏切りは二千年前の弟子たちに限りません。わたしたちだって絶えず繰り返してイエスさまを裏切っています。日曜日に礼拝に集い、イエスさまのみ前に出るとき、ただ「お久しぶりです」というようなあいさつで済むはずがありません。まず初めに神のみ前に罪を犯したことを告白し、「ゆるし」の言葉をいただいて、それで初めて礼拝を始めることができるのです。

しかし、とにかく、どうしたらよいのか分からずにいる弟子たちのところに主イエスさまが来てくださることによって、事態は全く新たな展開を始めます。復活の主イエスさまは弟子たちの真ん中に立つやすぐに、「平和があるように」とおっしゃいました。それと同時に、そのしるしをお見せになりました。それは釘を打たれた手と槍で突かれたわき腹です。それを見せるのは、弟子たちの背信を責めるためではありません。まったく逆です。イエスさまが流された血は、弟子たちを初めすべての人間の罪が赦されるための贖いの血でした。それは「世の罪を取り除く神の小羊」が流す血であり、神の愛と信実の証しです。

復活した主イエスさまとの出会いは、弟子たちにとって「ゆるし」の体験でした。「ゆるし」とは「和解、関係回復」の出来事です。父との縁を自ら断ち切ってしまった放蕩息子を、父親が再び子として受け入れるルカ15章のたとえ話、これがイエスさまの語る「ゆるし」のもっとも明快なイメージです。復活のイエスさまは、師を見捨てて逃げてしまった弟子たちの不実をゆるし、彼らを再び弟子として受け入れるのです。この「ゆるし」のもとで、弟子たちは犯した罪を深く悔い改めると同時に、心の底から賛美と感謝が湧き上がってきたことでしょう。

復活されたイエスさまに出会って、弟子たちの不安と恐れと悲しみは喜びに変わりました。イエスさまが死の前夜に弟子たちに語られた言葉が実現したのです。イエスさまは十字架の前夜、最後の晩餐の席で、ご自分の死を予告し、最後に《今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去るものはいない》(16章16~22)と言われました。今、その言葉が成就したのです。

《イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」》

弟子たちがイエスさまの復活を知った後、イエスさまは改めて彼らがよく知っている師として、《重ねて》平和のあいさつを送られます。

《そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。》

これは、聖霊を注ぐことを象徴する行為です。ここに描かれた、復活の主イエスさまが顕現して弟子たちに息を吹きかけている姿は、復活の主に出会う体験と聖霊を受ける体験は同じ体験であることを示唆しています。弟子たちは、聖霊を受けることによって初めて、イエスさまが復活の主であることを身をもって知ることになります。

《父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。》

これまで父である神に派遣された者としてイエスさまが地上で行なってきたことを、今度は弟子たちが行なっていくことになります。そして弱い人間である弟子たちが、この使命を果たすことができるように「聖霊」という神からの力が与えられるのです。弟子たちの使命の中心は「ゆるし」です。それは「愛」と言い換えることもできるでしょう。「ゆるし」は「愛」の典型だからです。

《だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。》

これは、ゆるすもゆるさないも弟子たちの好きにしてよいという意味ではなく、だからゆるしなさい、あなたがたが人をゆるすことによって、神のゆるしがその人の上に実現するのだという意味に理解すべきでしょう。

実は、ヨハネ福音書は、ここで初めて「罪を赦す」という言葉が出して来ます。意外にも、ヨハネはここまで一度も、この福音書の中心的メッセージを言い表わすこの言葉を使っておらず、イエスさまが復活して弟子たちに現われ、息を吹きかけて、派遣するこの場面まで、この大事な言葉を取って置きました。すべては、この「罪の赦し」に行き着くことを示すためです。

しかし、「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される」という言葉は、わたしにとってトゲが刺さるような言葉です。いつも人に「罪の赦し」を宣べ伝えているのに、実際、人の罪を赦せずにいる現実をたえず内に抱えているからです。こう思うのは、わたしだけではないようです。「主の祈り」に「私たちに罪を犯した者を赦しましたから、私たちの犯した罪をお赦しください」という祈りがあります。毎週、罪の赦しの説教を聞き、信仰を告白しながら、この祈りを心から祈ることができないという声を、わたしはしばしば耳にします。わたしはそれが当然もことと思いますけれども、またその一方で、心にわだかまりを持ちながら主の祈りを唱和したり、説教を聞いてアーメンと言っていて良いのかとも思います。

わたしたちは、このイエスさまの愛と赦しの中で生かされ、徐々にではあっても、少しずつ心を開くことを覚え、体の中にイエスさまの息を吸い込むことを覚るのだと思います。まだまだ肉の思い強く、霊の導きだけで生きることとはほど遠いのが現実です。でも、そういうわたしたちのところに今日もイエスさまは来て、真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように。聖霊を受けなさい。あなたがたの罪は赦されている」と語りかけてくださる。その霊的な現実の方が、わたしたちの肉の現実よりもはるかに強いことを信じたいと思います。

「ユダヤ人」を恐れ、家に閉じこもっている弟子たちの間に、復活のイエスさまが現われ、弟子たちに新たな使命を与えます。弟子たちは、イエスさまの言葉によって、生きる力と家の外に出て行く勇気とを得て、目の前にある困難に立ち向かっていきます。これこそが、ヨハネ福音書が伝えたかった「復活」の意味なのです。わたしたちも「主の平和」をいただいて外に出て行き、「伝えよ、仕えよ、愛せよ、赦せよ」という主の派遣の言葉に精いっぱい応えていきましょう。