Sola Gratia

復活後第2主日 説教

わたしの主、わたしの神よ

十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

《十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。》

トマスが登場します。まず、《ディディモと呼ばれるトマス》という名前についてですが、実は、ディディモはギリシア語で、トマスはアラマイ語で「双子」を意味する普通名詞です。では、本名はと言うと、14章22に《イスカリオテでない方のユダ》と出てくる「ユダ」だろうと推定されています。この個所の古いシリア語訳に「ユダ・トマス」と敷衍されていることなどが根拠とされています。ユダという名前の人は大勢いるので、区別できるように「トマス」がこの人の「呼び名」として使われていたのでしょう。

外典の「トマスによる福音書」その他では、「ユダ・トマス」はイエスさまと双子で、イエスさまから特別の啓示を受けたとされています。マルコ6章3とマタイ13章55に、イエスさまの兄弟に「ユダ」の名が出てきはしますが、それが「ユダ・トマス」だという主張は伝説にすぎないとされています。

次に、トマスの人となりについてですが、マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書では、十二人の弟子の表に名が出るだけです。ところが、ヨハネ福音書ではトマスは大事な役割を果たしています。この20章で、復活のイエスさまに会った証人として名をあげられているのは、マグダラのマリアとトマスだけです。これまでにも、トマスは2個所(11章と14章)で発言しています。

トマスはまずヨハネ11章の「ラザロの復活」の場面に登場します。イエスさまを石打にしようとしたユダヤを避けて、一行はヨルダン川の東側に避難していました。しかし、ラザロが死んだという知らせを受けて、イエスさまがベタニアに行こうと言うと、弟子たちは引き留めにかかります(8節)。《すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った》(16節)。トマスは、イエスさまに従って行く決意をこう述べて、仲間の弟子に決心を促します。トマスは、イエスさまがラザロのところに行くことは、イエスさまの死を意味し、その弟子である自分たちの死をも意味することを予感したのであり、その死を覚悟したのです。

14章でも、イエスさまの言葉に対して反応するトマスが登場します(1~7節)。弟子たちと最後の食事をしたあと、イエスさまは十字架への道とその先のことを話して、《わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている》と言われます。トマスがさえぎって、《主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか》と言います。そしてトマスは偉大な答えをイエスさまからいただきます。《わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない》。

トマスは「疑うトマス doubting Thomas」とレッテルを貼られて今日に至っていますけれど、彼は、誰よりも正直にイエスさまを愛し、信頼し、イエスさまと共に死ぬ覚悟をもってイエスさまについて行きました。そして、何をおっしゃっているか分からないときは、分からない、とはっきり言っています。

《そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」》

ここで、トマスは弟子たちの不信仰を代表しています。そして、その不信仰を克服して「信じる者」になる人間をも代表することになります。

トマスのように、自分の疑問や疑いを率直に神とイエスさまに「問いかける」ことがとても大切です。わたしたちが聖書の信仰に躓く最大の原因は、自分の疑問や問題をあえてイエスさまに問いかけることを「しない」ことです。人に聞き回ったり、本を読み漁ったり、自問自答するのも良いでしょう。しかし、イエスさまに向かって正直に問いかけることを「しない」なら、疑いは消せません。そういう人は、早晩必ず信仰生活に躓きます。

なぜなら、キェルケゴールが指摘したように、「答え」はつねにイエスさまご自身だからです。だからわたしたちは、「答え」と共に歩みながら、常に答えに向かって問いかけるのです。信仰とは疑いを持たないことではありません。信仰とは、疑いをつねにイエスさまに向けることです。信仰とは問いかけることです。なぜなら、問いは、それまで存在しなかった答えを産み出し創り出すからです。だから信仰は祈りと一つです。

《さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」》

《八日の後》というのは、週の初めの日の夕方に、復活されたイエスさまが他の弟子たちに現れた日から8日後ということでしょう。

《イエスが来て真ん中に立ち》、これは、教会の集いにイエスさまが来てくださることを表わしています。わたしたちの礼拝は、牧師が聖壇に上がることから始まりますが、それはイエスさまが礼拝堂に入って来られることを象徴し、このことによって礼拝が始まることを意味しています。そもそもイエスさまが来てくださらなければ、礼拝は成り立たないのです。

今度は、復活のイエスさまは、信じて喜んでいる他の弟子はさておいて、疑っているトマスだけに語りかけられます。イエスさまは両手の傷痕を見せ、わき腹の傷痕に触るように求めて、《信じない者ではなく、信じる者になりなさい》と言われます。先にマリアに「わたしに触らないように」と言われたように、トマスは復活されたイエスさまの霊体に触れることはできません。肉の体の手は霊の体に触ることはできません。それでもイエスさまがトマスに「あなたの手をわたしのわき腹に置きなさい」と言われと伝えられるのは、復活の主イエスさまのトマスへの顕現が、それができるほど具体的で現実感のある出来事であったことを強調するためでしょう。

《トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。》

トマスはもはやイエスさまのわき腹に手を触れることはなく(それはできないことです)、直ちにひれ伏して、《わたしの主、わたしの神よ》と叫びます。自分の前に立たれるイエスさまの臨在に圧倒されるのです。復活の主が現れてくださるときは、わたしの理性の推論や五感の証拠などは吹き飛びます。それはわたしの存在すべてを圧倒する現実です。

この「わたしの主、わたしの神よ」という叫びは、ヨハネの教会のイエスさまに対する信仰告白そのものです。ヨハネは、自分たちの信仰告白を、福音書の最後にトマスの口に置きます。復活して現れたイエスさまに向かって、「わたしの主、わたしの神よ」と叫ぶトマスの告白をもって福音書本体を締めくくります。イエスさまを「主」とする告白は、当時のギリシア語を用いる教会の告白と同じ線上にありますが、イエスさまをイスラエルの神としてはっきり告白しているのは、ここでのトマスが初めてです。

《イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」》

トマスは、それまで肉体としてのイエスさまの復活を見なければ信じないと言っていました。彼の「見る」とか「触れる」という言葉は、肉体を見る、肉体に触れる、という意味です。それに合わせて、イエスさまは手を見なさい、わき腹に手を入れなさい、と言います。しかし、それは肉体として蘇生したことを知らせたかったわけではありません。イエスさまは続けて《信じない者ではなく、信じる者になりなさい》とおっしゃいました。何を信じることを求めておられるのでしょうか。イエスさまが彼のために十字架に掛かって死んで、彼のために甦ったことです。

トマスは、その十字架の傷跡を見たときに、《わたしたちも行って、一緒に死のうではないか》と仲間に呼びかけたのに、実際には逃げて隠れて、週の初めの日も他の弟子たちと一緒にいなかった自分の惨めな姿をイヤと言うほど思い知らされたことでしょう。そして、「平和があるように」という言葉と共に見させられたイエスさまの傷跡を通して、神がご自身の独り子を与えるほどに惨めな罪人を愛してくださっていることを知らされたのだし、目の前に生きておられる方は、自分の罪を取り除くために十字架で血を流してくださった「神の小羊」であることを知らされたのです。つまり、己が罪とその赦しの現実を知らされたのです。彼が知るべきこと、そして信じるべきことは、まさにそのことでした。

そして、「見ないのに信じる人」とは、福音を「聞いて信じる人」のことであり、それは十二弟子以降のすべてのキリスト者、つまり、わたしたちのことです。わたしたちは誰も、十二弟子のように復活の主イエスさまに再会した者ではありません。説教を通してイエスさまの言葉を聴き、信じた者たちです。その信仰において、見ないけれど見ることが出来るようになった者たちです。《しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる》(14章19)と言われているとおりです。世はイエスさまの復活を見ないから信じませんが、わたしたちは主イエスさまの復活を見ないけれども信じ、わたしたちもまた新しい命に生きるのです。そのようなわたしたちを、主イエスさまはここで「幸いな人たちだ」と祝福してくださっているのです。この祝福の言葉が、ヨハネ福音書本体におけるイエスさまの最後のお言葉です。そして、今日もわたしたちは、その祝福の中にいるのです。