Sola Gratia

聖霊降臨後第16主日 説教

自分の十字架を担う

大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」

《大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。》

エルサレムへと向かうイエスさまの旅の話は、9章51節から始まっています。エルサレムでは十字架上の処刑が待っています。それは、私たち人間の救いを成し遂げるために避けりことのできない神のみ心でありました。そのイエスさまの歩みに、大勢の群衆がついて来ていたのですが、その彼らにイエスさまはこう言われました。

《もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。》

イエスさまは彼らに、このように私のもとに来る人たちが皆私の弟子であるわけではないと言います。ここに「わたしの弟子ではありえない」という言葉が二度出てきました。同じ言葉が33節にも出てきます。三度繰り返されるこの言葉は、今日の箇所の主題を示しています。それは、イエスさまの弟子となった者が、その信仰にしっかり留まり、信仰者としての生涯を全うするためには何が必要か、ということです。そのことは、続いて語られる二つのたとえ話からも分かります。

《あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない》。

塔を建てるときには、「造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか」とあり、また王は、自分の戦力と相手の戦力とを比較して、勝ち目があるかどうかを「まず腰をすえて考えてみないだろうか」とあります。「腰をすえて」と言う言葉が共通して現れます。軽はずみな判断で行動すれば、目的を達することができないばかりか、むしろ大きな犠牲を払わなければなりません。

教会もこの世の組織と同じように、何か決断をする際には、まずその費用、勝ち目があるかについてよく考えた方がよいと言っているのでしょうか。いいえ、イエスさまは、そのような信仰のないやり方を勧めているのではありません。イエスさまの弟子となる、つまり信仰者として生きていくことにおいても、腰をすえて、しっかりとした備えを持って取り組まなければ、結局途中で挫折してしまうと警告しているのです。

私たちがイエスさまの弟子として、信仰者として、途中で挫折することなく最後まで歩み通していくために必要な備えとは何でしょうか。それは、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命までも憎むことであり、また自分の十字架を背負ってイエスさまに従って行くことです。これを聞くと私たちは誰もが、「自分にはこんなことはとてもできない」と思うでしょう。しかし、私たちはこの厳しさをしっかり受け止めなければなりません。それは、自分の考えや自分の都合で福音の言葉をゆがめてしまわないために大切なことです。信仰をもって生涯を歩むというのは、決して楽なことではないのです。

ここで、イエスさまが語ったことに改めて耳を傾けましょう。「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹」を「憎む」とは、どういうことでしょうか。イエスさまの弟子となり、従っていくに際して、家族のことなどにかまっていてはいけない、家庭のことは放っておいて、ただイエスさまに従うことだけを考えよ、と言っているのでしょうか。マタイ福音書に、「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない」(マタイ10章37~38)とあります。この「わたしにふさわしくない」は「わたしの弟子ではありえない」と同じことです。これと合わせて考えると、ここでの「憎む」という意味は、憎しみの思いを持つということではなくて、「より少なく愛する」ということであり、より愛するべき方への愛を第一とするということになります。だからこそ、ここには「自分の命であろうとも、これを憎まないなら」と言われているのです。自分の命を憎むというのは、こんな命はいやだ、もう生きていたくないと思うことではなくて、自分の命よりもイエスさまをより愛し、大切にするということです。イエスさまがここで教えているのは、家族を愛し大切にしつつ、また自分の命も大切にしつつ、しかしその家族や自分の命以上に、イエスさまを愛して生きることなのです。

また33節の「自分の持ち物を一切捨てないならば」という教えも、《自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない》(ルカ12章33)と同じであると言えるでしょう。この教えは、持ち物を売り払って施しをすることによって天国銀行に預金を積んでこそ救いにあずかることができる、と言っているのではありません。自分の持っているもの、それは金銭的、物質的なものだけでなく、精神的、信仰的なものも含めてですが、そういうものを拠り所とすることをやめなさいという教えです。自分の持っているものから手を離して、ただひたすら神の恵みに依り頼む者となることをイエスさまは求めているのです。「自分の持ち物を一切捨てないならば」というのもそれと同じことです。自分の持ち物を捨てないというのは、それらにしがみつき、それらによって安心を得ようとしているということです。いざという時に本当に頼りにし、支えとなるものが、結局は自分の家族であったり、自分の命を含めた広い意味での持ち物だったりするなら、それはイエスさまのところに来てはいても、弟子としてイエスさまに従って生きてはいないということです。

私たちが本当に愛し、依り頼んでいる相手は誰なのか、自分の命、家族、様々な人間関係、財産か、それともイエスさまか、それが問題です。私たちが自分の命を本当にかけがえのないものとして大切にしていくことができるのは、それが神の恵みによって与えられたものであり、神の独り子イエスさまが、ご自分の命を身代わりに与えるほどにそれを大切に思ってくださっていることを知ることによってです。このイエスさまを信じ、愛し、依り頼んで生きる所には、人間の力や思いを超えた慰めと励まし、平安が与えられます。その慰め、励まし、平安の中でこそ私たちは、与えられている命を大切に生き抜いていくことができるのです。

イエスさまの弟子として、イエスさまをこそ愛し、依り頼み、イエスさまに従って生きる、それは決して簡単なことではありません。そこには、他のものを愛し、依り頼んでしまうことへの誘惑との戦いがあるし、自分の思いにではなくイエスさまのみ心に従っていくための葛藤もあります。苦しみや悲しみの中で、神の導きを忍耐して待たなければならないこともあります。「自分の十字架を背負って」とは、このことです。この十字架は、私たちがイエスさまの後に従って行くことにおいて背負うものです。何かつらいこと、苦しいことがあったらそれが自分の十字架だ、ということではありません。徳川家康の言葉に「人の一生は重きを負うて遠き道を行くがごとし」というのがありますが、私たちはその人生の重荷と十字架とを混同してはなりません。十字架は、イエスさまが私たちの救いのために背負ってくださったものです。そのイエスさまに従っていく歩みにおいて私たちも自分の十字架を背負うのです。だからこそ、そこには救いの約束が、希望があるのです。人生の重荷、苦しみは、それを背負っていけば将来に喜びや希望が約束されているわけではありません。死ぬまで背負い続けなければならない重荷もあります。しかし、イエスさまに従っていくことにおいて私たちが背負う十字架は、すでにイエスさまがそれを背負って歩み抜いてくださり、それによって私たちの救いを実現し、復活して新しい命を得てくださっているものです。このイエスさまのご生涯によって、十字架を背負うことが復活へとつながることが約束されているのです。私たちはこのイエスさまに従って自分の十字架を背負って歩みます。その歩みの中で、自分の命をも、家族をも、隣人をも、そして自分の持ち物をも、本当に愛し、大切にし、有意義に用いて生きる力をいただくのです。そしてそのイエスさまが、私たちの人生の重荷をも共に背負ってくださいます。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイ11章28~30)。私たちが自分の十字架を負ってイエスさまに従う決心をするとき、イエスさまは私たちと共にその十字架を背負ってくださるのです。私たちはこのイエスさまの力を信頼して、イエスさまの招きに答えていきましょう。