Sola Gratia

全聖徒主日 説教

豊かに実を結ぶために

「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。

これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」

《わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。》

これは、ダ・ヴィンチの絵で有名な最後の晩餐の席でイエスさまが弟子たちに語られた、いわば遺言のような言葉です。これが全聖徒の日に読まれるのは、このイエスさまの言葉は、わたしたちがきょう記念している人生の先輩、信仰の先輩たちがわたしたちに残した言葉としても聴きとるべきであるからです。

ぶどうの木はパレスチナで古くから栽培され、イスラエルの人々にとって馴染み深い植物でした。イエスさまはご自分について「わたしはまことのぶどうの木」であると語っています。それは、農夫である父なる神によって地上に植えられました。あなたがたイエスさまの弟子はぶどうの木に連なる枝です。枝は木から命の樹液を得ます。わたしたちはイエスさまから霊の命を得ているのです。ぶどうの木であるイエスさまの任務は、多くの実を生らせることだというのです。

農夫である父は、枝の手入れをなさいます。農夫によって剪定されてこそ、ぶどうは豊かな実りをもたらします。パレスチナ地方では、ぶどうの木は1月~3月に枯れた枝を切り取り、8月に葉が出る頃に小さな芽を摘み取り、実を結ぶ芽だけが育つようにするのだそうです。

神による「手入れ」は、わたしたちには人生の苦難と感じられます。しかし、「ピンチはチャンス」という言葉があるように、わたしたちは、順風満帆の時よりも逆風に対処する苦闘の中で成長するものです。「豊かに実を結ぶように手入れをなさる」という言葉は、そうした人生の苦難をとおしての成長という現実を示しているように思います。

「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」とは、わたしたちはイエスさまの十字架の贖いによって神のものとされ、イエスさまに連なる枝とされたことを言っているのでしょう。

《わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。》

枝は木につながり続けていなければ、実を結ぶことはできません。一旦は信仰を得ても、世の煩いのためにイエスさままら離れてしまう人が多いのです。イエスさまに繋がっている者には、豊かに実を結ぶと約束されています。

ぶどうの枝が着ける「実」とは「まことの命」を指していますが、キリスト教ではその「まことの命」の生き方を「信仰と希望と愛」という三つの次元で捉えてきました。その生き方は、神との関わりでは信仰、すなわち神を父としてその慈愛を信頼して生きることとして現われます。隣人との関わりでは愛、すなわち敵をも愛する絶対無条件の愛として現わわれ、自分自身との関わりでは希望、すなわち死を超える復活の希望として現われます。

《わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。》

前の段落に「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば」とありましたが、ここでは「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば」と言い換えられています。こういう言い方で、わたしたちがイエスさまに繋がっており、イエスさまに結びつき一つになるとは、イエスさまの言葉を信じて、イエスさまに身を託して、イエスさまの心を自分の心として生きることであることを示しています。そうなったら、わたしたちの望むことはイエスさま自身の願いとして神に執成してくださるので、わたしたちは豊かに実を結ぶことによって、つまり信仰と希望と愛において成長することによって、父なる神をあがめることになるのです。

《父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。》

弟子たちに対するイエスさまの愛は、イエスさまが父から愛されたその大きな愛があふれ出て、わたしたちに注がれたものです。イエスさまの地上の生涯においても、いま天の御座におられるときも変わりません。この愛の中で、わたしたちは神と交わり、イエスさまと交わり、生きる喜びを、生きることの充実感を得るのです。

《わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。》

この段落の最初と最後に、《互いに愛し合いなさい》という掟が告げられています。これがイエスさまの教えの核心です。その愛は《わたしがあなたがたを愛した》そのような質のものであるべきことが語られます。父なる神の愛は、それゆえイエスさまの愛は、絶対無条件の愛です。相手の価値とか資格とかを条件にしないで注がれる無償の愛、敵をも愛する愛です。ルカ福音書では、これを《あなたがたの父が憐み深いように、あなたがたも憐み深い者となりなさい》(6章36)と言い表わしています。

イエスさまの十字架の死は、思いがけない災難に遭ったというようなものではなく、友にために自分の命を自ら進んで捨ててくださった、つまり与えてくださったものです。友の身代わりになって死を引き受けてくださった、そういう究極の愛であったのです。この友として受けたイエスさまの愛をわたしたちもお互いの間に注ぎ出して豊かな交わりを作る、それがわたしたちの使命です。こういう神の信実、イエスさまの恵みを知って、交わりの中に生きる者は、イエスさまの友と呼ばれます。

わたしたちが友と呼ばれるのは、わたしたちの側の知力とか従順とかの結果ではなく、ひとえにイエスさまがわたしたちを選んでくださったその恵みによることです。

使徒パウロは《信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である》(第一コリント13章13)と言いましたが、ヨハネも愛を唯一究極の掟または命令と受けとめています。

きょう、わたしたちは故人を偲んで、ここに集まっていますが、愛の実は永遠に残るというのは、信仰の有無によらず、そうだとうなずけるのではないでしょうか。故人は模範的な聖人ではなかったかもしれません。「従僕の目に英雄なし」とはよく知られたことわざですが、故人と身近な人にとっては、故人の得手も不得手も良く見えていたことでしょう。しかし、いまや歳月が過ぎて、故人の欠点でさえユーモラスな思い出、愛すべき癖と思えるようになり、ただ故人の愛され、また愛した、故人との関わりだけが記憶にあって、懐かしさと感謝の思いとともに思い出されるのではないでしょうか。

わたしたち一人ひとりは、一粒一粒のぶどうの実です。しかし、ぶどうの粒はばらばらにじかに枝に着くのではなくて、一つの房として互いに繋がっています。わたしたちが繋がっている房とは、この池上教会の群れであったり、誰々さんの家族の群れであったりします。わたしたちは一つの房の中で育った一粒一粒です。

きょうの聖書は、イエスさまの遺言ともいえる個所で、「あなたがたは互いに愛し合いなさい」という内容でした。そして、このイエスさまの言葉は、同時に人生の先輩、信仰の先輩が語りかける言葉として、きょう故人を偲んでここに集まったわたしたちが肝に銘じて聞き取るべき言葉といっていいと思います。一人ひとりは個性をもっていて一様ではないのですが、他者との交わりの中でしか生きられません。互いに違いを持つ人が集まるからこそ、その交わりは豊かになることができ、一人ひとりの喜びとなり、生きる力となるのです。故人を偲ぶ日に当たり、自らの愛を育むことの大事さをも覚えましょう。