Sola Gratia

聖霊降臨後第13主日 説教

火を投ずる

「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。

父は子と、子は父と、/母は娘と、娘は母と、/しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、/対立して分かれる。」

先週木曜8月15日は68回目の終戦記念日でした。全国各地で過去の戦争を思い、平和への願いを新たにしたことと思います。大田区でも毎年この日に平和への願いを込めて多摩川の河川敷で花火を打ち上げます。この教会にもその大きな音が響いてきました。わたしたちも、きょうの礼拝の最後にフランシスコの「平和の祈り」をご一緒に唱えたいと思います。

《わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか》。

イエスさまはご自分の使命をこのように語っておられます。さらには、このようにも言われます。《あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ》。きょう、この言葉を聴くことに、わたしたちは戸惑いがあるのではないでしょうか。これは、イエスさまに対するわたしたちのイメージをひっくりかえすような言葉です。イエスさまは地上に平和をもたらすために来てくださったというのが、いつもわたしたちが聞いてきたことです。現に、イエスさまの誕生の場面で、天使たちはこう歌いました。《いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ》(ルカ2章14)。そして、イエスさまご自身が《平和を実現する人々は、幸いである》(マタイ5章9)と語っておられます。イエスさまのもたらすものは本来、平和であるはずです。

49節と51節の聖句を読み比べますと、「分裂をもたらす」と「火を投ずる」は同じことと見てよいでしょう。「その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか」と続いていますから、イエスさまの投ずる火はまだ地上に燃えてはいません。ですから、この火が、平和の反対の争い、戦争などではないことが分かります。争い、戦いの火なら、昔も今もいたるところで絶えず燃え上がっているからです。

では、イエスさまが言う「火」とはどういうことでしょうか。洗礼者ヨハネは群衆にイエスさまをこう紹介しています。《わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる》(ルカ3章16~17)。「火」には神に反するものを滅ぼしつくす「裁きの火」のイメージがあります。また、「火」は使徒言行録2章の「炎のような舌」のように、聖霊によって人に罪のゆるしをもたらし、神との結びつきを確かにする「清めの火」のイメージもあります。

わたしたちはそれぞれ自分の中に「欲望の火」、「理想の火」を持っています。それらは相俟って、自己主張の火、自分の正しさを押し通そうとして相手を裁く火に変わります。人間の火どうしの対立の炎がほうぼうで燃え上がり、わたしたちから平和を奪い、恐れさせ、不安にさせます。イエスさまの投ずる火は、人間が自分勝手にそれぞれ掲げている自己主張の火、自分の正しさを押し通そうとするための火、そういう火を飲み込み、滅ぼしてしまう神の火です。

《しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう》。

この「清めの火」を灯すために、イエスさまには受けねばならない洗礼がありました。すでにイエスさまがヨハネから洗礼を受けたことはルカ3章に記されていますから、これから「受けねばならない洗礼」は、あの洗礼のことではありません。「それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう」とありますから、それはまだ起きいていなことです。ヤコブとヨハネが右大臣、左大臣の席を願い出たとき、イエスさまは、《あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか》(マルコ10章39)と言われました。この「洗礼」は、イエスさまがこれから受ける十字架の死を意味しています。この洗礼によって、「清めの火」が地上に、わたしたちの間に投じられるのです。

イエスさまは、神の裁きを行う方として、この地上に裁きの火を投げ込まれるために来られました。しかも、この裁き主は、その裁きをご自身の身に受けて苦しまれる裁き主でした。それはなぜでしょう。神の裁きがそのようにして貫かれなければ、罪人であるわたしたちが、本当の意味で神に近づくことはできないからです。裁き主であるイエスさまが、わたしたちのすべての罪をご自分の身に背負い、その罪に対する神の裁きを代わって引き受けてくださったからこそ、わたしたちの救われる道が開かれたのです。それがイエスさまに対する神のみ心でした。そこに、人間に対する神の深い愛、神の信実の心が現わされています。裁きの火が、同時に救いの火となるのです。

わたしたちはイエスさまと出会い、その十字架の苦しみと死によって罪の赦し、すなわち救いが実現したことを信じて、洗礼を受け、キリスト信者となります。洗礼を受けるとは、イエスさまによって心の中に清めの火、神からの火を投じられるということです。神に逆らい、隣人を傷つけている古いわたしたちが、神からの火によって焼き尽くされ、死ぬのです。この神からの火は、殺すと共に生かす火です。古い、罪に支配されたわたしたちを殺すけれども、新たに生き返らせ、新しく生かす火です。そのようにして、わたしたちを救ってくださる火です。

この神からの火が、わたしたちの間に分裂を引き起こします。わたしたち自身のうちの古い人と新しい人との間の分裂、神の火と人間の火との分裂です。そしてこの分裂が、わたしたちと周囲の人々との間の分裂へと波及していきます。イエスさまの投じる火は、そういう意味で、わたしたちの間に平和ではなく、分裂と対立を引き起こすのです。

《あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、対立して分かれる》。

イエスさまが地上に投じる火、言い換えるとイエスさまの来臨とその宣教は、人々にはっきりとした態度の決断を求めるものでした。それは、イエスさまによって始まっている神の国を受け入れるか、それを拒否するか、という決断です。そこでは、争いを避けて表面的な平穏さを保つだけでは済みません。

ここに引用された旧約のミカ書は、家族の中にさえ生じる、イエスさまを巡る分裂を語っています。「五人」の家族というのは、両親とその息子、娘に、息子の嫁を加えた家族の姿が考えられているのでしょうか。《隣人を信じてはならない。親しい者にも信頼するな。お前のふところに安らう女にも、お前の口の扉を守れ。息子は父を侮り、娘は母に、嫁はしゅうとめに立ち向かう。人の敵はその家の者だ》(ミカ7章5~6)。

この対立は、自分の家族の中でうまくやっていけばよいという態度と、神の子どもとして、すべての人と兄弟姉妹としてのつながりを生きようとする態度の間にある対立です。

イエスさまがわたしたちのところへ来てくださったのは、裁きを通して、わたしたちに対する愛の信実を貫かれるためです。このイエスさまの愛を信じたからこそ、家族の分裂の中で預言者ミカは祈ることができました。《しかし、わたしは主を仰ぎ、わが救いの神を待つ。わが神は、わたしの願いを聞かれる。わたしの敵よ、わたしのことで喜ぶな。たとえ倒れても、わたしは起き上がる。たとえ闇の中に座っていても、主こそわが光》(7~8節)。そして、神が与えた新しい約束に望みをおいて歩み続けることができたのです。《あなたのような神がほかにあろうか、咎を除き、罪を赦される神が。神は御自分の嗣業の民の残りの者に、いつまでも怒りを保たれることはない、神は慈しみを喜ばれるゆえに。主は再び我らを憐れみ、我らの咎を抑え、すべての罪を海の深みに投げ込まれる》(18~19節)。この預言を実現させるために来られたイエスさまこそ、裁かれる、苦しむ裁き主であり、そのことを通して平和を実現してくださる「平和の主」なのです。

《さて、イエスのところに母と兄弟たちが来たが、群衆のために近づくことができなかった。そこでイエスに、「母上と御兄弟たちが、お会いしたいと外に立っておられます」との知らせがあった。するとイエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」とお答えになった》(ルカ8章19~21)。

イエスさまのこの言葉が示すとおり、家族とか民族という血縁は、神の家族となるのに何のかかわりもありません。イエスさまのようにただ父の慈悲に委ねきった人、そのような父の御心にかなった者が神の家族なのです。ですから、いったんは伝統的、閉鎖的な地縁、血縁の絆を断ち切らなければなりません。しかしそれで終わりではなく、イエスさまを信じる者は、開かれた関係を作り直すために家族や社会の中に帰ってきます。そして、家族との関係を以前にもまして豊かに受け取ることを目指ざすのです。

わたしたちの中にも分裂や対立の厳しい現実があるかもしれません。その中で神の救いが見えなくなることもあるかもしれません。しかし、「対立して分かれる」ということがイエスさまの望みではなく、本当の終わりでもありません。イエスさまのみ業についての聖書の教えは、神が人間の間に混乱や分裂を引き起こすということを言おうとしているのではありません。現実にどのような混乱や分裂があっても、それを突き抜けて神の救いが実現する、という希望と確信を表しているのです。

イエスさまはわたしたちの人生の中に一つの火を投げ込むことによってわたしたちを救うために世に来られました。イエスさまが十字架にかかって死ぬことによって示された愛に生きる者となりなさい、神はそう招いておられます。それが、《ただ、神の国を求めなさい》(ルカ12章31)という教えの意味でもあります。

「主よ、あなたの火をわたしたちのうちに投じてください。」

「主よ、わたしをあなたの平和の道具とさせてください。」