夕礼拝 説教
幼子から神の子へ
- 2026年10月15日(木)
- 夕礼拝
- ガラテヤ3章23~29
23信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。 24こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。 25しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。
26あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。 27洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。 28そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。 29あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。
はじめに: 壁を打ち破る恵みの衣
パウロは、前回の3章前半で、「私たちは自分の努力や律法を守ることで神に認められるのではなく、ただ十字架を信じる信仰によって義とされるのだ」と熱く語りました。そして今回の3章後半では、その救いが私たちにどのような新しい身分をもたらし、人間と人間の関係をどう根底からひっくり返してしまうのかを語っていきます。
1. 律法という名の養育係: その本当の役割とは
まず私たちが心にとめたいのは、「律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです」
(24)という有名な一節です。
ここで言われている「律法」は、イエスさまが非難した「昔の人の言い伝え」ではありません。神が与えてくださった正しい生き方の基準や戒め全般です。
「養育係」と訳されたギリシア語の言葉は、当時の裕福な家庭で、子どもが成長するまでの間、生活のしつけや保護のために付けられていた教育係の奴隷を指します。この養育係は、時には厳しく子どもを叱り、ルールを守らせる存在ですが、それはいつまでも付けられているわけではありません。子どもがやがて自立した大人になるまでの、期間限定の家庭教師なのです。
したがって、律法そのものが悪なのではありません。人間は、厳格なルールや戒めを与えられて初めて、「自分の力では到底これを完璧に守り切ることはできない」と自分の限界に気づくことができます。その絶望の地点に立ったとき、私たちは初めて「自分を助けてくれる救い主が必要だ」と目を覚まし、キリストのもとへ走り出すことができるのです。
ところが、信仰の時代が来る前について、パウロは「わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになる時まで閉じ込められていました」
(23)と言います。律法は私たちを導く案内人であると同時に、人間が自分の罪から逃れられない現実を突きつけ、身動きが取れなくなるほど厳しく取り囲む「現実の壁」でもありました。
2. 「未成年者」と「相続人」の決定的な違い(4章への架け橋)
先ほどの「養育係」について、当時のローマ法の背景を知ると、パウロの比喩の鋭さがより際立ちます。
子どものうちは、いくら家の財産全体の正式な「相続人(将来の主人)」であっても、実態としては身分の低い使用人や奴隷(養育係)に厳しく管理され、何一つ自分の自由にはできませんでした。どれほど大金持ちの息子であっても、子どものうちは奴隷と変わらない扱いです。
しかし、父親が定めた「その時(成人した時)」が来ると、状況は一変します。それまで子どもを叱りつけていた養育係は役目を終え、その子は晴れて自由な成人として、家の一切の財産を動かす本当の主人(相続人)となります。
パウロがここで言いたかったのは、「いつまでも律法というルールの下で怯えている『子どもの状態』にとどまっていてはならない。キリストによって大人(神の子)として成人したのだから、もう自由な主人として生きなさい」という、強烈なアイデンティティの転換なのです。
3. 信仰はどこから来るのか: 「キリストに結ばれる」という神秘
律法によって送り出され、私たちは「信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子」
(26)となります。
信仰が私たちの努力によって得られるものではないなら、当然、だれも自力ではキリストに結ばれることができません。では、信仰が神から一方的に与えられるものであるならば、最終的にはすべての人が自動的にキリストに結ばれ、救われるということになるのでしょうか。
確かに、信仰は私たちの人間の努力や功績によって生み出されるものではありません。それは神からの全く一方的な贈り物、恵みです。
神は十字架の愛という圧倒的なプレゼントを私たちの目の前に差し出し、「これをどうか受け取ってほしい」と呼びかけ続けています。それは強制されるものではありません。その呼びかけを聞いて、私たちの心が打たれ、「主よ、信じます」と自らの意志でその手を伸ばす。その動きそのものも、聖霊が私たちの内で働いてくださるからこそ可能なのです。
だからこそ、私たちが「キリストに結ばれている」と気づくとき、そこには自分の頑張りへの誇りは一切消え去り、「ただ主が私を選び、この手を握ってくださった」という深い感謝だけが残るのです。
4. 「キリストを着る」: 自ら喜んで身を包む愛の衣
では、「キリストを着る」
(27)とは、いったいどういうことでしょうか。
古代の世界において、洗礼式のとき、信徒たちはそれまで着ていた古い衣服を脱ぎ捨て、新しく白い衣へと着替えるという習慣がありました。それは単なる着替えではなく、「これまでの自分の汚れた生き方、罪、他人と競い合い見栄を張ってきた生き方をすべて脱ぎ捨て、新しくキリストという聖なる衣を全身にまとう」という、人生の決定的な衣替えの儀式でした。
外を歩くとき、私たちは無防備で丸裸ではいられません。私たちの魂も同じです。自分の弱さや罪の汚れ、むき出しの不安を抱えたままでは、神の聖なる御前に立てません。しかし、キリストという衣をまとったとき、神は私たちのむき出しの欠けを決して見ず、私たちを覆うキリストの美しさ、その完全な愛の衣そのものを見てくださるのです。
私たちは誰かに無理やりその衣を着せられるのではありません。私たちは自らの意思で、愛の衣に喜んで袖を通します。「主よ、あなたの愛が私のすべてを包み込んでください」と、自分から進んでその恵みのなかに飛び込んでいく。それが「キリストを着る」ということなのです。
5. 「キリスト・イエスにおいて一つ」: 差別の壁を溶かす愛
28節の「ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません」
という有名な一節は、実はスキャンダラスとさえ言える非常にラディカルな宣言でした。
古代ローマやユダヤの社会は、人間を徹底的に差別し、壁で区別する世界でした。ユダヤ人は異邦人を遠ざけ、自由人は奴隷を道具のように扱い、男は女よりも上の存在とされていました。社会の構造そのものが、分断と格差の上に成り立ち、「異邦人でも、奴隷でも、女性でもない、ユダヤ人の自由な成人男性であること」こそが、神の祝福の証しだと信じられていたのです。
パウロは、キリストを着る恵みに生きる者が分かち合う交わりについて、こう語ります。ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、男であろうと女であろうと、私たちは「皆、キリスト・イエスにおいて一つ」
(28)なのだ、と。
当時の差別社会の「当たり前」を、パウロはガラテヤ書のこの箇所で完全に解体してしまいました。「人間の作った身分の上下や性別の壁は、キリストの衣をまとった洗礼の前には一切通用しない。誰もが同じ神の子であり、完全に平等なのだ」と宣言したのです。これは、当時の社会秩序を根底から揺るがす、圧倒的な福音のメッセージでした。
キリストの十字架の前に立つとき、人間が勝手に作り上げた上下の壁はすべて粉々に打ち砕かれます。私たちは、一人の人のように一つのキリストに従う意思を持ち、同時に、あらゆる差別の壁を超えて互いを受け入れる寛容な愛を持てるように変えられていくのです。
お互いの違いを消し去るのではなく、違いを抱えたまま、それでもなお「キリストにあって一つの家族だ」と認め合う。その温かい交わりこそが、パウロが夢見た神の家族の姿でした。
どんな立場の人であっても、同じ神の愛に包まれた兄弟姉妹として見つめ返し、互いに手を取り合って歩んでいく。そんな温かい一歩を、今日、ここからまた新しく踏み出していこうではありませんか。
祈りましょう。天の父なる神さま。あなたがイエスさまによって結んでくださった関係に感謝いたします。いまだに弱いわたしたちの根幹に置かれているのが罪ではなくて、あなたの愛と赦しであることを信じる日々へ導き続けてください。救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン