聖霊降臨後第20主日 説教
恵みの宴と運命の衣
- 2026年10月11日(日)
- 聖霊降臨後第20主日
- マタイ22章1~14
1イエスは、また、たとえを用いて語られた。 2「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。 3王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。 4そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』 5しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、 6また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。 7そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。 8そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。 9だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』 10そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。 11王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。 12王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、 13王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』 14招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」
はじめに: 喜ばしい舞台の裏にある激しいドラマ
先週にひき続き、「天の国」のたとえです。本来なら最も喜ばしいはずの「婚宴」を舞台に、婚宴に招かれた者が使者を侮辱して殺し、王が軍隊を送ってその町を焼き払うという、先週のぶどう園のたとえと同様の、凄惨な事件が発生します。さらに、婚礼の礼服を着ていなかった一人の男が手足を縛られて外の暗闇に放り出され、「そこで泣きわめいて歯ぎしりする」
(14)という厳しい結末が待ち受けます。
祝宴にせよ、先週の収穫にせよ、神の愛や救いを表す祝福の場面で、なぜこれほどに残虐な行いや容赦のない裁きが語られるのでしょうか。それは、神からの呼びかけが、軽い気持ちで拒んだり、侮ったりしてよい「単なる誘い」ではなく、人の生死を分かつほどに真剣で、圧倒的な重みを持つ招きであるという現実を浮き彫りにするためです。王の招きを無視することは、王の権威と愛そのものを踏みにじる重大な反逆であり、破滅を招くということを、この物語は鋭く告げているのです。
1. なぜ「王子」が主役でありながら登場しないのか
たとえの冒頭で、王が「自分の息子のために婚宴を催した」と明確に語られています。しかし、実際に招待客とやり取りをし、使者たちを遣わし、怒って軍隊を送り、さらには礼服を着ていない男を裁くのはすべて「王」自身です。この「王子が登場しない」ことに、たとえを読み解く鍵があります。
王子は、神の御子であるイエス・キリストを、祝宴は、やがて来る世の終わり、神の救いが完成する究極の時を象徴します。イエスさまがこのたとえを語った時、十字架の死と復活、そして最終的な天の国の完成は、まだ成就していませんでした。つまり、王子が主役として前面に出てこないのは、今まさに私たち一人ひとりが、その完成に向かう途上、すなわち「招きのただ中」に生きているからです。私たちは見えない未来の完成を信じながら、今ここで王からの招きにどう応答するのかを試されているのです。
2. 無視された招きと、それぞれの優先順位
祝宴の準備を終えた王が家来に招待しておいた客を呼ばせると、「それを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺して」
(5-6)しまいました。
彼らは最初から反逆者であったわけではありません。ただ、彼等にとっては、王子の婚宴よりも、畑や商売の方がはるかに重要だったのです。
畑を耕すことも、商売をすることも、日常の生活としては決して悪いことではありません。しかし、彼らは「人生の最も大切な中心に、神の恵みと招きを据えること」を後回しにし、自分の日常の利害を優先させました。この姿は、日々の忙しさに追われて神の愛の呼びかけに耳を閉ざす現代の私たちの姿と、痛いほど重なり合っています。
3. 「王の怒り」と町を焼き払う裁きの意味
このたとえで、招待された人たちが王の使者たちに対して行った仕打ちは、単なる「招待の辞退」をはるかに超えた異常なものでした。彼らは使者たちを捕らえて辱め、殺してしまったのです。王は、自分からの招きを踏みにじり、使者たちを殺害した者たちの行動を知って激怒し、軍隊を送ってその殺人者たちを滅ぼし、彼らの「町を焼き払った」
(7)と語られます。
この「町を焼き払う」という描写は、紀元70年にエルサレムがローマ軍によって徹底的に破壊され、神殿が焼き尽くされた歴史的悲劇を想い起こさせます。神は長年にわたり、イスラエルの民に預言者たちを送り続け、神の愛の招きに立ち帰るよう呼びかけました。しかし、宗教的指導者をはじめとする当時の人々は、その神の使者たちを次々と退け、迫害し、ついには神の御子であるイエス・キリストを十字架につけて殺害したのです。
つまり、王の報復は、神の救いの招きをあざ笑い、愛の使者たちを退け続けた人間が、自らの頑迷さゆえに招き寄せてしまう破滅の必然性を物語っています。神の愛は限りなく寛大であると同時に、その愛を意図的に踏みにじり続けることには、取り返しのつかない結果が伴うという厳粛な真理がここに示されているのです。
4. 大通りで招かれた人々:選ばれる道の広がり
王が「町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい」
(9)と命じ、家来たちが「善人も悪人も」
片端から連れて来た結果、「婚礼の間は客でいっぱいに」
(10)なりました。
これは、神の救いの招きが、特権階級や宗教的エリートだけでなく、社会の道徳的な基準から外れていた人々や、見捨てられていた人々にまで及ぶことを示しています。神の国への扉は、「すべての人」に開かれているのです。加えて、人間社会が作り上げる道徳的な物差しがいかに神の国の前では無力であるかというメッセージが込められています。
しかし、こうして恵みの場に連れて来られたからといって、自分の生き方を改めず、傲慢なまま居座ることは許されません。
5. 「婚礼の礼服」をめぐる謎
王が客たちを見回すと、一人だけ「婚礼の礼服を着ていない者」
(11)がいました。王が「友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか」
(12)と尋ねると、男は一言も答えられず、口をつぐんでしまいました。
当時の古代中近東の王宮の習慣では、盛大な婚礼の際には、王が招待客のために特別なしつらえとして晴れ着をあらかじめ用意し、入り口でそれをまとわせて招き入れることがありました。この男が礼服を着ていなかった理由は、持っていなかったからではなく、用意された恵みの衣を身につけることを拒んだからです。
神は、私たちが自力で用意できない完璧な衣、すなわちキリストの十字架による赦しと義の衣を、無償の贈り物として用意してくださっています。神が用意されたその衣を受け入れず、「自分はこのままで十分立派だ」と居直る態度は、神の恵みに対する究極の拒絶となります。沈黙した男の姿は、神の真理の前に立つとき、人間の言い訳がいかに無力であるかを教えています。
6. 「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」の意味
そして、物語はあの有名な言葉で締めくくられます。「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」
(14)。この言葉は、決して「神は最初から救う人を選別している」という意味ではありません。
このたとえに「見かけた者はだれでも」とある通り、「多い」どころか、すべての人に向けて開かれています。しかし、その招きに対して、自分の仕事やプライドを優先させたり、神が用意してくれた衣(恵み)を拒んで自分の正しさにしがみついたりするならば、結果として「自ら選ばれない道を選ぶ」ことになります。すべての人に差し出された神の救いを「自分のものとして謙虚に受け取る」かどうかの決断は、私たち一人ひとりに委ねられているのです。
おわりに: 私たちはどのような衣をまとっているか
王子の婚宴のたとえの始まりから終わりまでを貫いているのは、「神の愛の呼びかけは、人生の土台を揺るがすほど真剣で、決して軽視できないものである」というメッセージです。そして、私たちが日々の生活の中で、神様の招きに対してどのような姿勢で生きているのかを静かに問いかけています。
神は今日も、あなたを最高の宴へと招き、温かな愛の衣を用意して待っていてくださいます。心の重荷や古いプライドをそっと脱ぎ捨てて、その招きに素直に「はい」と応えるとき、私たちの日常は、深い喜びと平安に満ちた本当の祝宴へと変えられていくのです。
祈りましょう。天の父なる神さま。イエスさまの十字架をとおして私たちの罪をあがない、救いへと招いてくださる恵みに感謝いたします。あなたの招きに感謝と喜びをもって応え、日々あなたに立ち帰りつつ歩むことを得させてください。私たちの主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン