Sola Gratia

ペトロの信仰告白

13イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。 14弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」 15イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」 16シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。 17すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。 18わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。 19わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」 20それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。

ガリラヤの北東にあたるフィリポ・カイサリアでの出来事です。この地方は、「雪の山」と呼ばれるヘルモン山の南麓で、ヨルダン川の水源です。イエスさまは弟子たちに向かって《人々は、人の子のことを何者だと言っているか》(3)と尋ねました。イエスさまは、これから彼らを伴ってエルサレムに向けて十字架に上る受難の道を歩み始めます。そこで、彼らの信仰を確かめたのです。

イエスさまの言う「人の子」とは、言葉通りには「人間」という意味ですが、通常イエスさまが御自身を指して用いる言葉です。それに、ダニエル書7章13節に記された終末に現れる審判者・救い主の称号としても使われました。ユダヤの人々の間ではそうした「人の子」の到来が待ち望まれていました。

イエスさまの問いに答えて、弟子たちは人々の評判を幾つか取り上げて紹介しています。ある者は「洗礼者ヨハネだ」、ある者は「エリヤだ」、またある者は「エレミヤだ」と言っています。「預言者の一人」とは、名前は特定しないけれどもそうした旧約の預言者が甦った、ということです。

弟子たちはそうした当てのない風評の中で、自分たちの見聞きした事柄に基づいて、イエスさまに対する自分の見解を求められます。《それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか》(15)。弟子たちはすぐには答えられませんでした。イエスさまの教えやみ業があまりにも豊かで大きかったからです。

それで、ペトロが弟子たちを代表して答えました。《あなたはメシア、生ける神の子です》(16)。イエスさまこそがメシアであり、永遠に生きておられる神の子である、との信仰告白です。

「メシア」とは「油を注がれた者」という意味で、そのギリシア語訳が「キリスト」です。旧約の時代に神に選ばれた預言者や王や祭司たちが任職を受ける時に、オリーブ油を頭に注がれたことに由来します。ですから、神に任命されて民の救済に当たる者ということです。やがて、この三つの働きを兼ね備えた者を「救い主」として期待するようになりました。そのメシア(救い主)は神から遣わされた人間であると理解されていましたが、ペトロはここで、イエスさまというメシアは生ける神の子であると告白したのです。

この答えを聞いて、イエスさまはペトロの本名を呼んで祝福を与えました。《シモン・バルヨナ(ヨナの子、シモン)、あなたは幸いだ》(17a)。

教会の基礎はまず、神の子イエス・キリストに対する真の信仰告白です。ペトロの人格が、この時にキリスト者として完成したということではありません。ペトロはこの信仰告白をした後すぐにも《サタン、引き下がれ》(23)と厳しく叱責されてしまいます。弟子たちはそうした拙い信仰のまま十字架への道行をイエスさまに従って辿ります。けれども、その出発点には、イエスさまの言葉と業を通して天の神を仰ぎ見、御子の啓示を受け取る信仰があります。ここから、キリストの教会は立ち上がります。

イエスさまは続けてペトロにこう言いました。《あなたにこのことを現わしたのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ》(17b)。ペトロがイエスさまの内に神を見、正しく信仰告白に導かれたのは、ペトロの経験や知恵から導き出されたものではなく、神の啓示によることです。つまり、弟子たちの信仰告白は、信じようという決心の類ではなく、神の啓示を真実と受け入れ、その真実に生きる自分を正しく認識することにあります。私たちが今、神の啓示に触れるのは聖書の福音を通して以外にはありません。福音に示された十字架と復活のキリストが、真の神の救いであることに目覚めさせられて、「あなたこそ生ける神の子キリストです」との告白をなすところに神の教会がつくられます。

順番から言えば、イエスさまが死から復活した後、聖霊が注がれて、《イエスは主である》(1コリント12章3)と告白するようになるのですが、ここではその先取りとして、神はペトロにこの信仰を与えたのです。

さらにイエスさまはペトロに次のように言いました。《あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない》(18)。ペトロがその後、使徒的教会を形成して行く中で果たした役割を考えると、イエスさまがここでペトロ個人に語られたことは重大な意義があります。イエスさまはこの時ペトロに、その後の教会での中心的な役割を認めながらも、教会を治める権能は福音の証言者である使徒職全体にそれを与えたと見る方が妥当です。

シモンに「ペトロ」もしくは「ケファ」というあだ名をつけたのはイエスさまでした。イエスさまがそこに託された思いはここで真実が明かされます。それは、彼の口から出た、岩のごとく揺るがない信仰告白です。彼が述べた告白の言葉は、キリストに現わされた神の確かな真実です。ですから、それは岩のように揺らぎません。イエスさまはペトロの口から出た、この「岩」の上に教会を建てると言いました。それは使徒たちのキリストに対する信仰告白ですが、それが岩のように揺らがないのは神の真実であるが故です。キリスト教会の基盤にあるのは、こうして、イエス・キリストにおける神の真理の啓示と、それを真実として受け止める使徒たちの信仰告白です。私たちの教会の基盤を形づくるのも、それと同じ、イエス・キリストを証しする聖書と、それを真理として告白する使徒的教会の信仰告白です。

イエスさまは「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と言っています。キリスト教会とは、キリストの建てた教会です。ギリシア語で「エクレシア」と呼ばれます。それは「召集されたもの」という意味です。教会は神が呼び集めたものです。

主イエスさまは「わたしが教会を建てる」と言っています。その恵みは絶大です。「陰府の力もこれに対抗できない」。「陰府の力」とは新共同訳の意訳で、元の言葉は「陰府の門」です。「陰府」とは死者の国を現わす聖書の表現で、「門」は複数形ですから、「陰府の力」とは「死の国」「死の勢力」ということになります。つまり、人間の運命は死の勢力とキリストの教会に表される「神の国」「命の勢力」との狭間にある。滅びゆく世の定めとしては、罪のために誰もが死の勢力に勝てないけれども、キリストの建てる教会は、キリストの十字架による罪の赦しと復活の力によってもはや死の力は及ばない。そういう領域、そういう国にも例えられる場所がキリストの教会です。

ですから、私たちは使徒たちから受け渡された福音に基づく信仰を確かにして、確信をもってキリストの教会に連なることができます。教会に躓く人は、人間に躓くのだと思います。ですから、イエスさまはペトロに、あなたにこのことを現わしたのは血肉ではない、と予め言ったのでしょう。教会を建てるのは欠けの多い人間の自分本位な熱心ではありません。天の父が、御言葉を通して御自身の御旨を明らかにし、イエス・キリストを真の神の子と信じる信仰の告白を教会に為させることで、教会が教会として立ち上がります。教会が身にまとう罪の汚れや交わりの拙さは、その信仰告白を真正に保つ努力の中で、教会の霊的・制度的・倫理的刷新という形で現れて来るもので、キリストが建てた教会がもはや不必要になることはありません。むしろ、世の終わりにはキリストの教会が真の完成をみて、もはや不明瞭ではない、生ける神の子の治める神の国が実現します。

イエスさまはさらに、ペトロに教会の権能を与えます。《わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる》(19)。「鍵」は複数形で、家の管理人が幾つもの鍵を持ち歩いて家全体を管理する務めを担っていたことに対応します。つまり、ペトロを代表とする使徒たちには、キリストから天国の管理が任されています。「鍵」ですので、それは門を開け閉めする権限を表します。ですから、誰が天国に入るか、締め出すかを定める権限が地上の教会に与えられているということです。そして、「つなぐ」「解く」という権能は、鍵のイメージではなく、犯罪者をつなぐ鎖や綱のイメージです。「つなぐ」ことは罪に定めることを、「解く」ことは罪を赦すことを表します。つまり、地上の教会で規律を形づくる権能が天から与えられている、ということになります。

イエスさまによるこうした権能の付与によって、キリスト教会では洗礼を受けたり、聖餐式に与る許可を与えたりします。また、戒規を執行して、キリストに対する不従順を示す会員が聖餐式に与ることを禁じたり、洗礼によって保証された教会員としての資格をはく奪することもあります。それは、キリストの名によって行われる権能の行使で、地上の教会には人の救いを左右するそれだけの権限が与えられていることを私たちは畏れをもって受け止めなければなりません。私たちはこうした制度的な教会の在り方を、キリストから受けたものとして尊びながら、キリストが建てる教会に召されて神に仕えます。

私たちの所属する現実の教会、それを私たちも、キリストが建て、キリストが支配しているキリストの教会、神の教会と信じ、愛すべきです。また、教会がそこに集う人間の故にではなく、神の教会であるがゆえに、ここに確かな救いがあることを信じる、信仰の告白が必要です。

祈りましょう。天の父なる神さま。ペトロの信仰告白を土台として、教会を打ち立てられたイエスさまの恵みに感謝します。私たちの小さな交わりが主にある喜びで満たされますように、聖霊の賜物をもって私たちの歩みを守り導いてください。救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン


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