Sola Gratia

カナン人の女の信仰

21イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。 22すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。 23しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」 24イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。 25しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。 26イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、 27女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」 28そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。

きょうの福音書は《イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた》(21)と始まります。「そこ」とは14章34節によれば《ゲネサレトという土地》ということになりますが、この直前には、ファリサイ派の人々や律法学者たちとの論争が記されていますから、意味合いとしては、イエスさまの言葉を拒否した彼らのもとを離れたということでしょう。

マタイ15章は《そのころ、ファリサイ派の人々と律法学者たちが、エルサレムからイエスのもとへ来て言った》(15章1)と始まります。エルサレムからガリラヤまで百二十キロもの道のりを旅してやって来たのは、イエスさまのことを伝え聞いたからです。神の国を宣べ伝え、罪の赦しを宣言し、病める人々を癒し、飼う者のない羊のような群衆を憐れみ、神の恵みの豊かさを現したイエスさまの言葉と行いが、エルサレムにまで伝えられたのです。しかし、彼らが遠くからやってきて開口一番に言ったことは、《なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません》(2)でした。

 彼らは、イエスさまのことを伝え聞いても、そして現にイエスさまに会っても、その言葉と行いの中に神の恵みを見出すことはできませんでした。イエスさまは、そのような彼らのもとを、一時的に離れ、異邦人の地、ティルスとシドンの地方(今のイスラエルのすぐ北側のレバノンという国にあたる)へと退いたのです。それがこの状況説明の意味するところです。そして、聖書はそのような場所において何が起こったのかを語りはじめます。

《すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、『主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています』と叫んだ》(22)。この女の人も、イエスさまのことを伝え聞いて御もとにやってきました。その点では、あのファリサイ派の人々と同じです。しかし、彼女が開口一番、口にしたのは、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」という言葉でした。異邦人の女性がユダヤ教の遍歴伝道者に対してこの二重の称号を使うことは、きわめて異例のことです。

この母親が「娘を憐れんでください。娘を癒してください」ではなくて、「主よ、"わたしを"憐れんでください」と言っていることにも注目しましょう。憐れみを必要としているのは、娘ではなく、母親である自分なのです。なぜか。愛する娘が苦しんでいるのに、どうすることもできない無力な自分であるからです。

しかし、その点においては、本当はあのファリサイ派の人々や律法学者たちも同じです。同じ人間ですから。しかし、気づいていないのです。この母親は、娘の問題を通して、そのことに気づかされました。憐れみを必要としている自分であることを知ったのです。彼女とファリサイ派の人々との違いは、単に置かれている状況の違いではありません。憐れみを必要としている自分を知っているか否かの違いです。

そのように、彼女は「わたしを憐れんでください」と叫びました。叫び続けていたようです。そして、続く物語は、「憐れんでください」と口にするということが、いったい何を意味するのかということを私たちにはっきりと示しています。

この母親は「カナンの女」と呼ばれています。カナンとは、パレスチナ地方の古い地名です。カナン人とはイスラエルがパレスチナ地方に定着し始めたころ、すでに住んでいた幾つかの先住民族の総称です。

当時の律法の教師の慣習に従えば、「カナン人の女」に向き合って会話することなど、あり得なかったはずでしたが、イエスさまは彼女の訴えに耳を傾け、振り向いてくださいました。しかし、その母親の求めを、イエスさまは拒否して言います。《わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない》(24)。異邦人のあなたには遣わされていないということです。さらに、《子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない》(26)とまで言いました。ここでパンとは、神の救いの祝福を象徴しています。「子供たち」というのはユダヤ人のこと、そして「子犬」とは異邦人のことです。イエスさまは、神の恵みは先ずユダヤ人に向けられているのであって、それを異邦人であるあなたに与えるのはよくないことだ、と言っているのです。

驚いたことに、彼女は、《主よ、ごもっともです》(27a)と答えます。人が「犬」と呼ばれるのは屈辱です。ここで腹を立てたら元も子もないと、ぐっと怒りをこらえたのでしょうか。そうではありません。彼女の心は、次の言葉によく現れています。《しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです》(27b)。

彼女は自分が「小犬」であることを認めているのです。これは単に自分が異邦人であるということを言っているのではありません。そうではなく、「自分は当然のごとくパンをいただける"子供"ではない」と言っているのです。

この世の関わりにおいても、自分が受けて当然と思っている人は、拒否されれば腹を立てるでしょう。神に対してさえも私たちは同じように振る舞っているかもしれません。神なのだから祈りを聞いてくれて当然。自分の願いをかなえてくれて当然。願いどおりにならなければ「なぜですか」と言い、挙句の果てには、「そんな神は信じるに値しない」とさえ言い出すかもしれません。そして、そのような人からは本当の意味で「憐れんでください」という祈りは出てこないでしょう。「憐れんでください」という言葉は、受けるに価しない自分であることを知っている人が口にする言葉だからです。

しかし、ここで一番大事なことは、彼女のへりくだりではありません。そうではなくて、彼女が安心して「主よ、ごもっともです」と言えたということです。イエスさまの御前では、安心して「小犬」であり得たということです。なぜか。彼女は、「しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」と言うことができたからです。

この「しかし」という言葉は、実は原文にありません。「なぜならば」と書かれているのです。彼女が言っているのは、こういうことです。「主よ、ごもっともです。わたしは小犬です。なぜなら、主人の食卓から落ちるパン屑をいただく、それが小犬というものだからです」。このように自分を無資格の場に置いて、神の恵みだけに身を委ねる姿が信仰です。《そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた》(28)。

要するに、彼女は「主人の食卓から落ちるパン屑」をいただけることを知っているのです。私は当然のごとくパンをいただける者ではない。でも、神は受けるに価しない者を憐れんでくださる。小犬を憐れんで、パン屑をくださる。神はそういう主人なのだ。それが、彼女の確信だったのです。

そう言えたのは、目の前にいるのがイエスさまだったからです。受けるに価しない者に、なおも恵みを示してくださる神の憐れみを、言葉をもって、行いをもって現して来たイエスさまだったからです。イエスさまを通して神の憐れみがいかに豊かに現されてきたか、そのことを彼女は伝え聞いていたのです。ですから、イエスさまのもとに来て「主よ、憐れんでください」と言えたのです。

同じことを伝え聞いていても、ファリサイ派の人々にとってはそれが喜びになりませんでした。なぜか。自分が当然のごとくパンをもらえる者だと思っているからです。しかし、自分が「小犬」だと思っている人にとっては、イエスさまの言葉と存在は、大きな喜びです。安心して、「小犬」として、「主よ、わたしを憐れんでください」と言えるのです。

ここで興味深いのは、このカナン人の女性が、イエスさまを自分のご主人と呼び、自分をその主人の子犬と位置づけて、イスラエルの民に与えた残りのパン屑を食べるのはきわめて自然のことであると主張していることです。

そのようにして私たちは主人の食卓に近づくことが許されています。祈ることができるとはそういうことです。そのこと自体がすでに神の憐れみなのでしょう。神の憐れみとして与えられている日々の祈りの時を大切にしましょう。

そして、もう一つ。私たちが神の憐れみにあずかっているのは、私たちを通してこの世界が神の憐れみを知るためなのでしょう。私たちはキリストの体なのです。誰かが神の憐れみを知ることができるように、そして「主よ、憐れんでください」と祈ることができるように、私たちはこの世に遣わされているのです。

祈りましょう。天の父なる神さま。御子イエスさまがその言葉と行いで示してくださった愛を信じて、諦めないで祈ることができることを感謝します。どうか重い沈黙に遭うときも、あなたが共にいて、行き詰まる私たちに、新しい始まりを示してください。救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン


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