1 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。2 すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。3 その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。4 番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。
5 天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、6 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。7 それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」8 婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。9 すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。10 イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」
今日の聖書箇所は、イエスさまが十字架上で死なれて墓に葬られて3日目の朝の出来事です。
《さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った》
(1)。彼女たちは「墓を見に行った」と書かれていますが、実際には、ただ墓を見に行ったわけではありません。他の福音書によると、彼女たちは香料と油を塗って遺体の処置をするために行ったと書かかれています。
その二日前、イエスさまが葬られたその日にも、墓を見つめる二人の姿がそこにありました。こう書かれています。《ヨセフはイエスの遺体を受け取ると、きれいな亜麻布に包み、岩に掘った自分の新しい墓の中に納め、墓の入り口には大きな石を転がしておいて立ち去った。マグダラのマリアともう一人のマリアとはそこに残り、墓の方を向いて座っていた》
(27章59-61)。彼女たちは、葬りを終えてヨセフが立ち去った後も、ずっとそこに座ったまま墓を見つめ、墓の入り口をふさぐ大きな石を見つめて動こうとしないのでした。
金曜日の夕方、イエスさまは日没までの短時間のうちに葬られました。あわただしく葬られたので、遺体を丁寧に処置をすることができませんでした。それで墓に行ってイエスさまの遺体に、香料を塗ろうとしたことがマルコ福音書とルカ福音書には書かれています。
《すると、大きな地震が起こった》
(2)。エルサレムの町中を揺るがす大地震ではなく、墓の地面が大きく揺れたということです。それは、《主の天使が天から下って近寄り、石を脇へころがし》
(2)たことによるものです。
主の御使いは彼女たちにこう言います。《恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい》
(5-6)。どうしても見なくてはならないことがあったのです。そこにイエスさまはおられない、という事実です。
《それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました》(7)。「あの方は死者(複数形)の中から復活された」というのは、イエスさまの復活は死者たちの復活の開始であるという福音理解を示しています。彼女たちは
《恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り》(8)ます。そして、御使いが言ったとおりに、エルサレムの町の弟子たちのいる所に戻っていこうとしたその途中で、イエスさまに出くわします。天使たちの言葉の通り、神さまのメッセージの通り、本当にイエスさまは復活していました。
そしてよみがえったイエスさまの第一声が《おはよう》
(9)でした。「おはよう」とは、あまりに当たり前のあいさつ過ぎて拍子抜けするような気がします。
ちなみに、この「おはよう」と訳された言葉は、直訳すると「喜びなさい」という意味のギリシア語です。そして、これは通常のあいさつの言葉でした。朝であれば「おはよう」、昼であれば「こんにちは」、別れるときであれば「さようなら」といつでも使えるあいさつの言葉です。同じようにふつうに使うあいさつの言葉として「シャローム」というヘブライ語がありますが、こちらは「平安あれ」という意味です。つまりイエスさまは、彼女たちに朝のあいさつの言葉を言ったのです。朝、人に会ったら「おはよう」とあいさつするように。当たり前のように、です。しかしその「喜びなさい」という普通のあいさつが、文字通り本当に喜ばしいこととなっているのが、この復活のイエスさまによって語られているというわけです。
《婦人たちは近寄って、イエスさまの足を抱いて、その前にひれ伏した》(9)。この時の彼女たちは、驚きと喜びと感激で、涙が止まらなかったのではないかと思います。この「ひれ伏す」という言葉は、後に「礼拝する」という意味になっていきました。この彼女たちの姿に、私たちの礼拝のひな形があります。
しかし、この驚きと喜びと感激は、決して他人事ではありません。昔話ではないということを聖書は言いたいのです。それはイエス・キリストを信じる者の復活です。たとえば次のような聖書の言葉があります。
《神は、主を復活させ、また、その力によってわたしたちをも復活させてくださいます》(1コリント6章14)。
それゆえ、彼女たちが約束通り実際に復活のイエスさまにお目にかかったように、私たちもまた神の国においてイエスさまにお目にかかる約束が与えられています。そうすると、彼女たちが味わった感激を、私たちもまた経験することができるということです。
感激に浸る彼女たちに対して、イエスさまは役割を与えます。それは、家に閉じこもっている弟子たちにメッセージを伝えるということでした。復活のイエスさまが現れる前に、天使が彼女たちに復活のメッセージを伝えたように、それから実際にイエスさまに出会ったように、今度は彼女たちが弟子たちに復活のメッセージを伝えるように言われたのです。そしてそのあと実際に弟子たちに復活のイエスさまが現れるという順序です。イエスさまに出会った者が、人々にそのことを伝えていく。そのようにして福音は宣べ伝えられていくのです。
イエスさまは《恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる》
(10)、と伝えなさい言われました。先に天使によって語られたことが、ここで復活したイエスさま自身によって、改めて指示されます。
「わたしの兄弟たち」とは、誰のことでしょうか。弟子たちのことです。今、人々を恐れて、そしてイエスさまを見捨てた弟子たち。イエスさまが十字架上で亡くなったというのに、墓に葬ることを手伝うことすらせず、家にこもってガタガタ震えていた弟子たち。まったく、救いがたい弟子たちです。この復活の場にも居合わせていないのです。どこにも弁解の余地はありません。もう破門どころか、神の裁きを受けても当然です。
ところが、イエスさまは、その人たちについて「わたしの兄弟たち」と呼んでいます。信じられないことですけれども、まさにイエスさまは、弟子たちを兄弟と呼べるようになるためにこそ、十字架にかかられたということです。
復活したイエスさまはここで弟子たちを「わたしの兄弟たち」と呼んでいます。これまでの師と弟子の関係が、復活によって新しい関係に入ったことが表されます。もはや教師の教えを守る弟子ではなく、復活されたイエスさまに従う弟子たちは、イエスさまといのちを共にして歩む兄弟となるのです。
こんなにも弱い弟子たちであることをご存じであったイエスさまは、その上で弟子たちを愛し、導き、そして今また「兄弟」と呼んでくださるのです。弟子たちはイエスさまを見捨てたけれども、イエスさまは弟子たちを見捨てません。そのイエスさまは、私たちのことをもすべてご存じの上で、招き、導いてくださるのです。
祈りましょう。天の父なる神さま。あなたは十字架で死んだ御子を復活させることによって、御子の贖罪死を受け入れ、罪ある私たちが無償で御子の兄弟となれる道を開示してくださいました。私たちを哀れみ、救いの道へ導いてください。救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
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