Sola Gratia

主イエスの受難

45さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。46三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。47そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。48そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。49ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。50しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。51そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、52墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。53そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。54百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。55またそこでは、大勢の婦人たちが遠くから見守っていた。この婦人たちは、ガリラヤからイエスに従って来て世話をしていた人々である。

今日の福音書朗読は、イエスさまが十字架にかけられ、息を引き取るまでのことを伝えています。あの日、あそこで何が起ったのか。あのお方が十字架の上で死んだことは、いったい何を意味するのか。聖書は実に様々な仕方で、言葉を尽くして、あの出来事の意味を伝えようとしています。

この箇所には、今日の私たちが首をかしげてしまうようなことが書かれています。昼の十二時に全地が真っ暗になった。神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。さらには墓が開いて、死者が生き返ったという話まで出て来ます。マタイが伝えようとしているのは、あの十字架の出来事が、ただ人間が人間に対して行ったことではないのだ、ということです。そこには神がなさった特別なことがあるのです。それが何なのかを見ていきましょう。

まず書かれているのは《昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた》(45)ということです。

この箇所を理解する上で重要なのは、その背景にある旧約聖書の言葉です。最も明るいはずの真昼が暗闇となることを告げている旧約聖書の言葉があるのです。《その日が来ると、主なる神は言われる。わたしは真昼に太陽を沈ませ、白昼に大地を闇とする。わたしはお前たちの祭りを悲しみに、喜びの歌をことごとく嘆きの歌に変え、どの腰にも粗布をまとわせ、どの頭の髪の毛もそり落とさせ、独り子を亡くしたような悲しみを与え、その最期を苦悩に満ちた日とする》(アモス8:9-10)。

ここでアモスが語っているのは、裁きの預言です。彼は神がこの世の罪を裁く「その日」について語っているのです。アモスは「その日」を「主の日」と呼びます。暗闇として到来する「主の日」について語っているのはアモスだけではありません。イザヤも語り、ヨエルも語っていたことです。それは繰り返し語られてきたことなのです。

そして、マタイはついに「その日が来た」と伝えます。旧約聖書の預言のとおり、《昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた》(45)。エルサレムに十字架が立てられたあの日、神の裁きの日が到来したのです。神が白昼に大地を闇とする日、そして、神が喜びの歌をことごとく嘆きの歌に変えられる日が、ついに到来したのです。

しかし、地上に神の裁きが行われる「その日」が到来したにもかかわらず、現実に起こったことは、アモスの預言の通りではありませんでした。地上の人々は嘆きの歌など口にしていませんでした。

神に見捨てられて嘆きの歌を口にしていたのは、ただ一人、十字架の上のイエスさまだけでした。《イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」》(46)。《これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である》(46)と説明されています。そのように、ただイエスさまだけが神に裁かれ、見捨てられた者として、苦悩の叫びを上げていたのです。

他の人々は、「主の日」が到来し、神の裁きが地上に行われているなどと夢にも思ってはいませんでした。ある人は《この人はエリヤを呼んでいる》(47)と言います。他の人は《エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう》(49)と言います。そのとき、本当は自分が神の正しい裁きのもとに苦しみながら滅びるしかなかったことを、誰も知ることはありませんでした。神から見捨てられた者として滅びるしかなかった自分であることを、誰も知ることはありませんでした。

自分の罪が神の裁きにおいて明らかにされていることを知ることもなく、人々はイエスさまに向かってあざけりの言葉を投げつけていたのです。そして、そのただ中で、罪なきイエスさまが、まるで避雷針のように、すべての人に代わって、罪を裁く神の怒りを一身に受けたのです。地上に注がれた神の怒りを、受けるべき杯として、ただ一人で飲み干していたのです。

そして、《イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた》(50)。イエスさま死なれました。ヨハネ福音書は、イエスさまの最後の叫びは、《成し遂げられた》(19章30)であったと伝えています。救い主が成すべきことは成し遂げました。救い主のこの地上における目的は果たされた。それは、この地上に決定的な何かが始まった瞬間でもあります。

それゆえに、マタイは《そのとき》(51)という言葉をもって、さらに神のなされた二つのことを伝えます。

まず、《神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け》(51)た、ということが語られています。

「垂れ幕」とは、神殿の一番奥にある「至聖所」と呼ばれる部屋の前にかかっている垂れ幕のことです。その至聖所には一年に一回だけ、大祭司が垂れ幕を通って至聖所に入ることが許されます。大祭司は罪を贖う犠牲の血を携えて入るのです。贖いの血を携えなければ通ることができない神殿の垂れ幕は、神と人間との隔てを象徴しています。

しかし、その垂れ幕が真っ二つに裂けた。誰が引き裂いたのか。イエスさまが息絶えた瞬間、神が引き裂いたのです。ですから「上から下まで」と書かれています。人間が裂いたら「下から上まで」となるでしょう。

イエスさまが成し遂げてくださったことのゆえに、もはや神と人間とを隔てるものはなくなりました。罪の赦しによって、人間が神に近づく道が永遠に開かれたのです。これが、あの瞬間にこの地上において起こった第一のことです。

そして、さらに、《地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた》(51-52)。

イエスさまの死において始まったのは、死の支配という人間にとって最も確かに思えたものが揺り動かされ、打ち壊されることです。

墓が開かれたことと、神殿の垂れ幕が裂かれたこと。この二つは切り離すことができません。

考えてみてください。私たちが死んだ後で、再び墓から出てくることができれば、それが救いになるでしょうか。本当の意味で死の克服になるでしょうか。いいえ、ただそれだけならば、それはきっと地獄を意味するに違いありません。

本当に必要なのは、罪の赦しであり、隔てが取り除かれた者として神との交わりが回復されることなのです。そのことを抜きにして、ただ墓から出て来るだけなら、苦悩の日々が伸びるだけなのです。

最終的に死が克服されるためには、イエス・キリストの十字架であり、「あなたの罪は赦された」という神の宣言であり、神と人との隔てが取り除かれることが必要なのです。そこにこそ真の救いがあります。

今日から受難週に入ります。復活祭までの一週間、イエス・キリストの十字架において成し遂げられた救いの恵みを深く思い巡らす時として過ごしましょう。

祈りましょう。天の父なる神さま。あなたは御子イエスの十字架によって、あなたの義と愛を明らかに示してくださいました。あなたの信実に応えて、御子の御足の後に従って歩めますよう、私たちを養い導いてください。救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン


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