Sola Gratia

カナでの婚礼

1三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。 2イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。3ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。4イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」 5しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。6そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。7イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。8イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。9世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、10言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」 11イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。

きょうの箇所は、「カナでの婚礼」という小見出しですが、結婚そのものが中心ではなく、婚礼の場でイエスさまの御業が行なわれるという記事です。イエスさまを招き、イエスさまがそれに応えて臨席し、結婚する二人を祝福してくださる、そのような式や婚宴を挙げることができたら、何と素晴らしいことでしょう。

そして、ヨハネ福音書をこの先も読んでいくと、イエスさまは悲しみの極致のような葬式にも来られることが分かります。また、何気ない日常生活の中に思いがけず現れることもあります。どんなときでもイエスさまはわたしと共におられます。わたしが死ぬときにも、イエスさまはおられます。わたしが死んだ後にも、イエスさまがおられます。信じた者に、イエスさまが共にいないような場所も時もありません。そして、イエスさまがおられると気づくとき、それを受け入れるとき、すべての者が、それまでとは違う自分に変えられます。この福音書の語りかけは、イエスさまが共におられることを私たちに保証するものなのです。

《三日目に》(1)とあります。私たちキリスト者は「三日目」と聞くと、それだけでイエスさまの復活、あの喜ばしい朝の出来事を思い浮かべます。ヨハネは、そのことを意識して書いているのです。この日に、イエスさまは復活の姿を現されました。そのとき、キリスト教会は誕生しました。その日にキリスト礼拝が始まったからです。きょうの箇所を読みつつ礼拝する者が、今生きておられるイエスさまの姿を見ることができ、信じることができれば、その者は幸いです。そういう「三日目」に、《弟子たちはイエスを信じた》(11)のです。この言葉で、1章から続く弟子の召命物語は一つの区切りがついているのです。

しかし、その一方で、《イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現わされた》(11)とあるように、この出来事は、これからはじまる一連の「しるし」の最初なのです。次のしるしの舞台は、エルサレム神殿に飛び、イエスさまが父の家である神殿を「商売の家にするな」と猛烈にお怒りになり、《この神殿を壊してみよ。三日で立て直して見せる》(19)と言います。ここにも「三日」という言葉が出てきます。この衝撃的な事件もまた、婚礼の席における喜ばしい奇跡と同様に、イエスさまが誰であるかを示す「しるし」なのです。

さて、きょうの箇所には《イエスの母がそこにいた》(1)とあります。そして、なぜか招待客の一人であるイエスさまの母が、これまた招待客の一人に過ぎないイエスさまに《ぶどう酒がなくなりました》(3)と告げます。それに対して、イエスさまは《婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです》(4)と答えます。しかし、母は、息子のその言葉を聞いた上で、自分の息子を「この人」と言いつつ、その家の召し使いに《この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください》(5)と指示します。

その母の言葉を聞いた上で、イエスさまは行動を開始します。そこには《ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである》(6)とあります。1メトレテスというのは約40リットルです。その水瓶が六つある。《水がめに水をいっぱい入れなさい》(7)、とイエスさまは命じます。深く掘った井戸の底まで下って行き、桶に水を汲んできては水瓶に入れるという大変な作業を、召し使いたちは黙々とこなします。彼らは、この命令を下す方が、誰であるか、すでに分かり始めていたのでしょう。水瓶は一杯になりました。イエスさまは《さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい》(8)と命じます。すると、その水はぶどう酒に変わっていました。

着目すべきは、《このぶどう酒はどこから来たのか》(9)という句です。この「どこ」という言葉は、ヨハネ福音書では非常に大事な言葉です。たとえば、イエスさまの最初の弟子になった者たちは、イエスさまの《何を求めているのか》(1章37a)という問いに対して《どこに泊まっておられるのですか》(1章37b)という問いで答えました。これは「あなたは誰ですか」という意味です。

ですから、「このぶどう酒がどこから来たのか」という問いは、「このぶどう酒は、神から来たのか、それもと人からか。そして、何なのだろう」という問いです。この先、幾たびも、霊はどこから?命の水はどこから?命のパンはどこから与えられる?という形で出てきます。それはすべてイエスさまから、さらには神から与えられるのです。そして、人は神が与えるもので生きる、それも肉体の命を越えて永遠に生きる者とされるのです。このしるしを通して、イエスさまは、初めて神としてのご自身を隠された形で啓示しているのです。これが第一のことです。

次に、この水がめはもともと「ユダヤ人が清めに用いる石の水がめ」でした。つまり、律法に定められた清め用です。律法に忠実に生きて、自らを清くしておきたいユダヤ人は、異邦人や罪人と衣服が接触してしまったら、歩いた跡を踏んでも汚れたと考えます。ですから、彼らは外出から帰ると必ず手や足を洗い、身を清めるのです。しかし、その律法に定められた水が、イエスさまの言葉によってぶどう酒に変わります。そこに神の独り子としての栄光の姿が現われているのです。それはどういう意味なのか。それが問題になってきます。

人を汚すのは罪です。人との接触によって表面が汚(よご)れることと、内面から汚(けが)れることでは本質的に違います。律法で定められた水は、表面の汚れを洗い清めるだけです。しかし、ぶどう酒は、人を内面から清めるものです。なぜなら、ぶどう酒は旧約聖書では、しばしば、終わりの日に与えられる罪の赦しという祝福の象徴ですし、新約聖書では、神の独り子イエス・キリストの血潮の象徴だからです。この赦しの愛がイエスさまのうちに満ち溢れている。水瓶の中に満ち溢れているのです。これが、イエスさまが最初になした「しるし」であり、そこに神の「栄光」が現わされ、《弟子たちは、イエスを信じた》(11)のです。

イエスさまの母の言葉、そして、イエスさまの言葉に黙々と従った召し使いもまた、イエスさまが誰であるかを知っています。この「召し使い」という言葉はヨハネ福音書の他の箇所では「仕える者」と訳されています。その者たちを今に置き換えるなら、聖霊の注ぎの中で、イエス・キリストを礼拝し、父なる神を礼拝している私たちのことです。イエスさまに従ってこの家に来た「弟子」もまた同じことで、私たちのことです。私たちは皆、今、神に仕えている、礼拝しているからです。礼拝する者だけが、イエスさまが誰であり、ぶどう酒が何であるかを知ることができるのです。

1章からの弟子の召命物語は、ここで一旦終わります。弟子たちもまた新しい信仰の歩みに踏み出しました。では、この信仰は、どのようなものだったでしょう。

弟子たちはカナの奇跡を見て、新たに信じました。しかし、その後に山あり谷ありの歩みが続きます。私たちはこれからその過程を追っていきます。そして、彼らの無理解、不信仰を見せつけられることになります。そして、それがそのまま自分の姿であることに愕然とする、そういった歩みをしていくでしょう。その究極は十字架の場面です。そこに、イエスさまを信じたはずの弟子たちはいません。ペトロもフィリポもナタナエルもいません。イエスさまが十字架にかかって殺されるとき、弟子たちは《わたしはあの人を知らない》(ルカ22章57他)と言って、逃げて隠れてしまったのです。それが、彼らの信仰の行き着く姿だったのです。私たち人間の信仰とは、そういうものなのです。

しかし、にもかかわらず、私たちは信仰によって救われます。それは罪の赦しという恵み、神の愛を信じる信仰によって救われるということです。私たちの信仰が堅いから、決して動揺しないから救われるのではありません。私たちに対するイエスさまの愛が堅いから、決して動揺しないから、その恵みがいつでも満ち溢れるほど与えられるから、私たちは今日も、こうしてイエスさまに仕える者、礼拝する者、弟子として生かされ、用いていただけるのです。信じる者にはイエスさまが共にいてくださいますから、私たちは勇気をもって、神を愛し、隣人に仕え、隣人を愛し、神に仕える生活に踏み出していきましょう。

祈りましょう。父なる神さま。御子イエスさまは水をぶどう酒に変える奇跡を通して、ご自分が誰であるかを示されました。私たちが聖書の御言葉を通してあなたの赦しの愛を信じて生まれ変わることができるよう聖霊を注ぎ、導いてください。救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン


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