Sola Gratia

イエス、洗礼を受ける

15民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。 16そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。 17そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」

洗礼者ヨハネの声がイスラエルの民の中に響き渡った一世紀前半は、ユダヤ教の中にメシア待望が燃え上がっていた時代でした。異教徒であるローマ人の支配を覆し、純粋にユダヤ教律法に基づく支配を実現しようとする運動が、さまざまな形で始まっていました。その中には、ローマに税を納めることを拒否し、武力を用いてでもローマの支配を打ち破らなければならないとする「熱心党」と呼ばれる人たちもいました。ユダヤの民衆も、神から油を注がれた者「メシア」が到来して、イスラエルの民を異教の支配者から解放し、栄光の時代をもたらしてくれるのを待望していました。

洗礼者ヨハネは、このような信仰のゆえに反ローマ運動を扇動する預言者ではありません。かれは神から受けた言葉をイスラエルの民に告知する預言者でした。しかし、ヨハネの霊の力に溢れ、権威ある言葉を聴いた民衆は、彼こそ終わりの日にイスラエルに遣わされると約束されていたメシアではないかと考えるようになります。そして事実、洗礼者ヨハネがヘロデによって処刑されて殉教した後、彼をメシアと仰ぐ人々の弟子集団が形成されるようになります。

洗礼者ヨハネこそメシアではないかという期待を持つようになったイスラエルの民に、ヨハネ自身がはっきりと自分はメシアではないと宣言します。自分の後に、自分よりもはるかに優れた方が来られる。自分はその方の履物のひもを解く値打ちもない。あなたたちはその方の到来をこそ期待して待つべきであると、ヨハネは民衆に告知します。

自分とその方の違いをヨハネは、《わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる》(16)からだとします。最初期のキリスト者の集団は、洗礼者ヨハネをメシアと言い表す人々の集団に対して、復活されたイエスさまこそメシアであり、最終的な救済者であると主張しました。そのさいヨハネとイエスさまの違いを、ヨハネは水で洗礼を授けたが、復活されたイエスさまはキリストとして聖霊によって洗礼される方であり、それによって終末的な救済をもたらす方であるからであるとしました。

洗礼者ヨハネは、やがて到来する最終的な審判を収穫の時の比喩で語っています。イエスさまもこの比喩を用いています(マルコ4章29, 12章2, マタイ13章30)。実である麦は集められて倉に入れられますが、殻は火で焼き払われるように、神が最終的に世界を裁くとき、実質のある神の民は栄光の国に入れられますが、中身のない外形だけのイスラエルは「消えることのない火」で焼き払われることになるという警告です。

洗礼者ヨハネは、やがて到来するメシアのすることを、自分がしている洗礼のイメージで語っています。すなわち、自分は悔い改める者を水に浸しているが、その方は「火で洗礼する」、つまり、世界を火に浸して、火の審判に耐える者を栄光の中に迎え、耐え得ない者を焼き尽くすという形で裁きを行うというイメージです。

洗礼者ヨハネが、自分が行う水の洗礼と対比して、来るべき方が行われる洗礼を「火による洗礼」としたことを、最初期のキリスト者の教会は、現在自分たちが体験している、復活者キリストが行われる「聖霊による洗礼」の象徴とし、ヨハネの宣教をこの「聖霊による洗礼」の予告と意義づけました。

このようにして、復活されたイエスさま御自身が弟子たちに、「ヨハネは水であなたがたに洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられる」と語り、その聖霊の力によって地の果てまで復活者イエス・キリストを証言するように命じられたとされています(使徒1章5, 8)。

21民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、 22聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

ここからイエスさまが舞台に登場します。この一段でルカが言いたいことは、イエスさまの働きはすべて神の霊を受けたことから始まるのだということです。民衆は皆、差し迫っている神の裁きの日に備えて、罪の赦しに至らせる悔い改めの洗礼をヨハネから受けていましたが、イエスさまだけは洗礼を受けたときに、神の霊、聖霊を受けたのです。この事実が、イエスさまをイエスさまならしめるのです。

まずルカの記事には洗礼者ヨハネが出てきません。ヨハネ投獄の記事をイエスさまの洗礼よりも前に置いて(3章19-20)、ヨハネを舞台から退場させ、洗礼の場面にヨハネを登場させません。

イエスさまをキリストと言い表す集団と洗礼者ヨハネをメシアと仰ぐ集団が競合するようになったとき、イエスはヨハネから洗礼を受けたヨハネの弟子だという主張に対抗するために、イエスさまがヨハネから洗礼を受けた事実に触れることを避ける傾向が出てきました。

最初の福音書マルコ1章9は、率直にイエスさまがヨハネから洗礼を受けたことを伝えていますが、後になるほどこの事実を避ける傾向が見られます。マタイ3章13はマルコを忠実に継承し、イエスさまがヨハネから洗礼を受けた事実を伝えていますが、本来はヨハネがイエスさまから洗礼を受ける立場であることをヨハネ自身が認めているという文章を入れて、イエスさまの優位を主張しています(3章14-15)。

ルカはここで見たように、先にヨハネを退場させることで、この問題を回避しています。ヨハネ福音書になると、イエスさまがヨハネから洗礼を受けた事実そのものが語られなくなります。そして、ヨハネは水で洗礼したが、イエスさまは聖霊によって洗礼する方であることが、ますます強調されるようになります。

イエスさまに聖霊が降ったとき、イエスさまは、《あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者》(3章22)という天からの声を聴きます。これは、「主の僕」の詩の冒頭の言葉です(イザヤ42章1)。この預言者の言葉は、この「僕」の召命と働き、またその苦難を語る詩が第二イザヤ(イザヤ書40-50章)に四カ所ありますが、ここはその最初の行になります。イエスさまは、この天からの声により、聖書に預言されている「主の僕」を成就する者として召されていることを自覚したことが、この記事からうかがえます。

マルコは、イエスさまに聖霊が降った出来事のことを、「天は裂け」という激しい語で表現しています。これは、イザヤが《どうか、あなたが天を裂いて下ってくださいますように》(64章1)と祈った、新しい時代、終末の時の到来を告知する表現です。ルカはこれを「天が開け」という一般的な表現に変えていますが、この句が終末の到来を象徴する表現であることを聞き逃してはなりません。「天」は、新約聖書においてはしばしば、空間的に地に対立するものではなく、地上の時間に対して終末の永遠を象徴する言葉です。このとき、終末が地に突入してきたのです。イエスさまは、終わりの時に現れる「主の僕」として召され、生涯その召しに従う道を貫かれた方です。

ヨハネ福音書にはイエスさまがヨハネから洗礼を受けたことを語る記事はありません。したがって、洗礼を受けたときに聖霊が降ったという記事はなく、イエスさまがいつ聖霊を受けたかについても説明していません。ただ、洗礼者ヨハネが《わたしは、”霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た》(ヨハネ1章33)と証言したことを伝えています。この証言から、イエスさまが聖霊を受けたのは、イエスさまがヨハネのもとにいた時期であるということは分かります。ヨハネから洗礼を受けて、ヨハネと共に洗礼運動に加わっていた時期に(ヨハネ3章22参照)、しばしば荒れ野で一人祈り、その深い祈りの中で聖霊を受け、「主の僕」として召される父の声を聴いたのではないかと推察されます。イエスさまご自身から出たこの召命体験の(おそらく断片的な)証言が、後に伝承の過程で単純な形にまとめられて現在のマルコ福音書のような形の物語になったのではないかと考えられます。

マルコ福音書のイエスさま受洗の記事は、死者からの復活によって神の子として立てられたイエスさまの告知と重なっており、地上のイエスさまを物語ることによって復活されたイエスさまを告知しているのです。

祈りましょう。父なる神さま。御子イエスさまが「聖霊と火による洗礼」を受けて、私たちもその洗礼にあずかる道を開いてくださったことを感謝します。この新しい年もイエスさまの執り成しに支えられつつ、御足の跡を歩めますように。救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン


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