聖霊降臨後第14主日 説教
立ち帰る喜び
- 2022年9月11日(日)
- 聖霊降臨後第14主日
- ルカ15章1~10
1徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。 2すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。 3そこで、イエスは次のたとえを話された。 4「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。 5そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、 6家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。 7言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」
8「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。 9そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。 10言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」
《徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た》(1)。イエスさまは彼らと親しく話します。そのイエスさまの態度に対して、《ファリサイ派の人々や律法学者たち》(2)は不満を抱いています。
つまり、イエスさまの周りには、「自分たちは正しい人間(義人)だ」と思える人々と、「自分たちは罪人だ」と思わざるを得ない人々がいたのです。イエスさまは、その両方と別々の機会に一緒に食事をしてきました。徴税人や罪人とはもちろんのことですが、ファリサイ派の家に招かれれば、彼らと一緒に食事をしてきました。それが、彼らには気にくわないのです。
彼らにとっても、イエス様の言葉や業は圧倒的な権威を感じさせるものでした。神から権威を与えられた預言者であるなら、「罪人」を断罪し、遠ざけるはずではないかと思っていたのです。それなのに、イエスさまは徴税人や罪人たちを迎え入れて、《食事まで一緒にしている》(2)。それは、神を同じくする仲間、神の家族であることの証しです。そのイエスさまの態度を見て、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、絶えず不平を口にしていました。イエスさまは、そういうファリサイ派や律法学者に、たとえ話を語っているのです。しかし、その場には徴税人や罪人たちもいて、聞いています。
《あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう》(4~7)。
イエスさまは、羊飼いであるなら誰でも九十九匹を残して見失ってしまった一匹の羊を見つけ出すまで捜し回ると言っているのではありません。
当時は、今と違って羊を襲う狼がおり、羊泥棒もたくさんいました。彼らは、《盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするために》(ヨハネ10章18)来るのです。そういう危険を承知の上で、九十九匹の羊を残し、見失った一匹を見つけるまで捜し回る羊飼い。それは「良い羊飼い」(イエスさま)のことであって、現実には、そんな羊飼いはいないのです。
この羊飼いは、努力の甲斐あって群れが増えたから「一緒に喜んでください」と言っているのではありません。勝手に群れから離れ、羊飼いの目からは見えない所に行ってしまった愚かな羊を、大変な苦労をして見つけ出したことでこんなに喜んでいるのです。
《ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。9 そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう》(8~9)。
ドラクメ銀貨(ギリシアの銀貨で、ローマのデナリオン銀貨と同じ)一枚は、労働者一日の賃金で、庶民にとっては貴重。庶民の家は一部屋で窓はなく、床も地面のままです。部屋の中は暗く、地面には土埃がたまりますから、銀貨がなくなればともし火を灯して地面を掃きながら捜すしかありません。
羊飼いは《見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください》(6)と言っていますが、原文は「私の羊を見つけた」です。この「私の」が大事です。
十人兄弟の中の一人がいなくなってしまった場合、「十人いること」が何より大事なら、他の誰かを養子に迎えても良いわけです。でも、親にとっては「あの子」でなければ何の意味もないでしょう。十人いることが問題なのではなく、「あの私の子」が私と共にいることが大事なのです。
9節の原文も「あの銀貨を見つけました」です。友人が同情して他の銀貨をあげようとしても、女は、「あなたのご好意には感謝するけれど、私には『あの銀貨』でなければ駄目なのです」と言って断るでしょう。
問題は、一匹の羊とか一枚の銀貨の損失ではありません。羊飼いや女は、神あるいは神に遣わされたイエスさまのことでしょう。神にとって、私たちの誰一人として「いなくてもよい人間」ではない。そういうことを、イエスさまは語ってなっているのです。
にもかかわらず、私たちは《右も左もわきまえぬ人間》(ヨナ4章11)であり、しばしば飼い主から離れ、また土埃の中に落ちてしまうのです。アダムとエバが、蛇に唆され、禁断の木の実を食べてしまった時以来、私たちは《(あなたは)どこにいるのか》(創世記3章9)と神から捜される者となったのです。神にとって「いなくてもよい人間」はいないから、神は捜し続けてくださいます。
神は、私たち一人ひとりを、「私の羊」「あの銀貨」として、掛け替えのない存在として捜しだし、ご自身の家の食卓に着かせてくださるお方です。私という一人の人間を見つけ出すことができたとき、大喜びしてくださるのです。
この時、イエスさまと徴税人や罪人たちが「家の中」で食事をしていたとすれば、「家の外」で不平を言いながら決して中に入ろうとしないのがファリサイ派や律法学者です。彼らにしてみれば、徴税人や罪人は神の国の中には「いなくてもよい人間」どころか「いてはならない人間」だからです。そういう者たちと一緒に食事はできない。罪人たちが外に追い出されたら、中に入っていこうと思っています。
しかし、この食事は神が招いている食事です。徴税人や罪人たちも皆、神にとっては惜しむべき人間であり、無くてはならない人間です。私たちは、自分がそのような存在として神に見られている時は感謝します。でも、自分にとって「いなくてもよい人間」や「いてはならない人間」をも、神が自分と同じように見ていると我慢できないものです。家の中に入って来ない。一緒に食事をとらない。そういう心の思いの行き着く先が、殺人であり、残虐行為であり、戦争だと思います。
パウロは、ガラテヤ地方の教会に向けてこう言っています。《あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です》(ガラテヤ3章26~29)。
肌の色、身分、性別、経済的格差、それまでの宗教の違い。人間がその力では決して乗り越えることができない壁を、イエスさまはご自身の十字架の死と復活を通して乗り越えてくださり、すべての人々を一つにする道を開いてくださったのです。すべての人が、一つの食卓に着く道を開いてくださっているのです。イエスさまに対する信仰において、すべての者が、神の国を受け継ぐべき相続人とされたからです。
でも、イエスさまに結ばれた神の子であるはずの私たちは、「あの人と一緒に食卓に着くのは嫌だ」、「一緒に礼拝などできない」と不平を言って家に入って来ない。あるいは、家の中に入れない。私たちキリスト者が一番、イエスさまの恵みと憐れみと慈しみの深さに躓いているのです。
聖書の神は正義の神です。しかし、その正しさ、神の義はどこに現れたか。それはイエスさまの十字架の死に現れたのです。 神は、罪なき独り子であるイエス・キリストに罪人の罪をすべて背負わせ、裁いたのです。そのことを信じる者には、誰であれ神は赦しを与えて義とする。そこに神の義が現れている。私たちは、このようにして一匹の羊、また一枚の銀貨を見つけ出して喜ぶイエスさまの姿を見て、賛美する者でありたいのです。
祈りましょう。天の父なる神さま。あなたは御子イエスさまの言葉と業を通して、人間に対する深い愛を現してくださいました。私たちは、あなたに対してまた隣人に対して、利己的な姿勢をとり続けてしまします。聖霊により私たちを新たにしてください。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン