Sola Gratia

聖霊降臨後第15主日 説教

不正な管理人のたとえ

1イエスは、弟子たちにも次のように言われた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄遣いしていると、告げ口をする者があった。 2そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』 3管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。 4そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』 5そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。 6『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』 7また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』 8主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。 9そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。 10ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。 11だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。 12また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。 13どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」

《ある金持ちに一人の管理人がいた》(1)。管理人というのは、主人の財産と商売の一切を託され、取り仕切っている人です。信頼されてその務めを与えられていたのですが、主人の信頼を裏切りました。財産の無駄遣いが発覚したのです。管理人は主人から責任を問われることとなりました。解雇は確実です。困った彼はいろいろと考えたあげく、ついに名案を思いつきます。《そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ》(4)。

さっそく彼は計画を実行に移します。彼は、《主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った》(5)。その人は油百バトスの借りがありました。聖書に付録する度量衡の表によると、百バトスとは約2300リットル。相当な量です。個人的な借りではなく、商売の取り引きでしょう。管理人は彼に言います。《これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい》(6)。証文の額を半額にしてしまいます。減額された人は大喜びしたに違いありません。

次の人にも彼は言いました。「あなたは、いくら借りがあるのか」。小麦百コロスの借金がありました。小麦約23,000リットル分です。管理人は彼にも言いました。《これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい》(7)。このように、管理人は自分の立場が残されている僅かの期間に、自分を受け入れてくれる仲間を作るための行動を起こしたという話です。

弟子たちはこのたとえ話を聞いて、管理人は厳しい裁きを受けるに違いないと思ったことでしょう。ところが、イエスさまはこう言うのです。《主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた》(8a)。主人は管理人が何を企んでいるかお見通しでした。この主人は、たとえ話の中の「主人」であると同時に、「主」イエスさまでもあります。なぜほめたのか。それは、《この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢く振る舞っている》(8b)からです。主人はこの不正な管理人の、自分の身を守るための「抜け目のないやり方」、直訳すれば「賢く行ったこと」をほめたのです。

彼の賢さとは、終わりに備えたということでした。解雇は確実でした。彼は管理人としての終わりに直面していました。しかし、彼は終わりのことを思い煩って、そこに留まってはいませんでした。大事なのは「今」だからです。今、どのような行動が可能なのか。彼はそのことを考えて、行動したのです。

この点に関しては、信仰者よりも世の人の方が優っているではないか。とイエスさまは言います。しかし、「終わりに」についてならば、私たちこそ、本当は決定的な「終わり」についてイエスさまから聞かされているはずです。私たち自身の人生もいつか必ず終わりを迎えます。この世もまた必ず終わりを迎えます。そして、必ず神の御前に立って、この管理人と同じように、「会計の報告」を出すことになります。私たち自身の人生が問われることになるのです。必ずすべての人に訪れる終わりに備えるならば、大事なのは、今どのように行動するか、今与えられているものをどのように用いるかです。

そこでイエスさまは非常に大胆な言葉で私たちに迫ります。《そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる》(9)。

「不正にまみれた富」。それは必ずしも「不正で得た富」という意味ではありません。「天の宝」に対する「この世の富」という意味合いです。この世の「お金」の話です。イエスさまは「お金で友達を作りなさい」と言うのです。

「お金で作った友達なんて本当の友達ではない」とも言えるでしょう。しかし、私たちは皆、今こうして生きているのは、誰かがお金を使ってくれたからです。今こうして誰かとの関わりに生きられるのも、誰かが私たちのためにお金を使ってくれたからです。ここに会堂が建っていて、誰かの信仰の友でいられるのも、誰かがお金を出してくれたからです。そもそも、日本の教会が世界の教会にとって信仰の友でいられるのも、この国に宣教師を送ってくれた国々の人たちが、私たちのためにお金を使ってくれたからです。

私たちはそれぞれ誰かの愛によって支えられて生きているのです。それは抽象的なことではなくて、具体的にお金や時間や労力が費やされ、犠牲が払われることなのです。そのように誰かによって友とされてきた私たちに対して、イエスさまは言うのです。「不正にまみれた富で友達を作りなさい」と。「そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる」。「永遠の住まいに迎え入れられる」の意味上の主語は第一には神です。しかし、ここでは神だけが考えられているのではありません。「不正にまみれた富で友達を作りなさい」の「友達」も考えられているのです。誰が私たちを永遠の住まいに迎え入れてくれるのか。神だけではなく、友達も迎えてくれるのです。それはすなわち、与えられているものを、誰のために用いてきたかということでもあります。こうして見ると、「不正にまみれた富で友達を作れ」という言葉は過激な表現ですけれども、今、この時に富をどう使うかを考える上で、とても重要なことを教えてくださっていることが分かります。

さらに、イエスさまはこう言います。《ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか》(10~12)。

もちろんお金はあくまでも、この世に属するものであり、永遠の価値を持つものではありません。教会に託されているのは、神の国の福音であり、永遠の救いをもたらす神の御言葉です。信仰者が常に目を向けるべきは、この世の富ではなく、永遠なる神の国の豊かさです。私たちは上にあるものを求めるのです。その意味では、確かにお金に関わることは、結局はこの世に属することであり、永遠なることに比べて、「小さな事」とも言えるでしょう。しかし、そこでイエスさまは「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である」と言うのです。この世の富は、一時的に託されているものに過ぎません。管理人はあくまでも管理人に過ぎません。しかし、その託されているごく小さな事に忠実でなければ、大きな事を任せられるだろうか、永遠なるものを任せられるだろうか。

そこでイエスさまは最後にこう締めくります。《どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない》(13)。富は「仕えるべきもの」ではなく、主人である神に託されたものとして「使うべきもの」です。その用い方において、私たちは小さなことに忠実であるか、終わりに向かう私たちの賢さが問われます。

祈りましょう。天の父なる神さま。御子イエスさまの執り成しによって私たちが御前に立つことができることを感謝します。どうか友だちも共に立つために、あなたからの賜物を賢く用いることができるよう、聖霊と御言葉によって導いてください。救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン