Sola Gratia

聖霊降臨後第13主日 説教

弟子への招き

25大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。 26「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。 27自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。 28あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。 29そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、 30『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。 31また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。 32もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。 33だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」

《大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた》(25)。この「群衆」とは、直前にあったファリサイ派の議員の食事には招かれない者たちでしょう。しかし、神の国での食事には招かれている。そういう人々にも、イエスさまは覚悟を求めます。

《もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない》(26~27)。この場合の「憎む」は、感情というよりは選択です。イエスさまは、《どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである》(16章13)とも言っています。どちらも捨てたくないと思っている限り、何も選んではいないのだし、それはその人自身の人生をまだ生き始めていないということでしょう。

ご自分の命を捨てて愛してくださるイエスさまを信じ、イエスさまの御心に従って生きる。主のために生き、主のために死ぬ。それが、《自分の十字架を背負って》(27)イエスさまについて行くということです。

教会の使命は福音の宣教です。救い主、イエス・キリストを宣べ伝え、一人でも多くの人々に洗礼を授けるために教会は存在するのです。四つの福音書の最後は、すべてイエスさまによる伝道命令です。イエスさまは、明確に「洗礼を授けなさい」と命じているのです。「イエスさまに従うことは、それまでの自分に死に、献身することだ。生半可な覚悟でできるものではない」と、告げなければなりません。それでも「イエスは主である」と告白する者が出てきたときに、教会は父・子・聖霊の三位一体の神の名によって洗礼を授けるのです。それが、イエスさまから与えられた教会の使命です。

きょうの箇所には三回も、《わたしの弟子ではありえない》(26、27、33)という言葉が出てきます。家族、親族、さらに自分の命よりもイエスさまを愛し、イエスさまに従って生きることには、愛と信仰の力が必要です。

きょうの箇所で、家族は自分を愛してくれる存在として登場しますが、21章ではキリスト者になった者を迫害し、殺す者として家族や友人が描かれています。親には内緒で洗礼を受けざるを得ない人もいますし、人はそれぞれ何らかの葛藤を経て洗礼を受けます。しかし、洗礼を受けた後にこそ、本当の戦いがあるのです。ですから、甘いことを言う訳にはいきません。その戦いは、勝利を目指して命をかけて戦うべき戦いであり、真の自由のための戦いであり、死ぬに値する戦いです。

28節以下の、「塔のたとえ」で問題になっていることは、最後まで成し遂げることができるかどうかです。《完成することはできなかった》(30)とあざけられることがないように、敵に打ち勝つことができるように、まずよく考えることが求められています。

永遠の命を受け継ぐことを願いながら、富を手放すことができずに、イエスさまの前から立ち去っていく議員の姿を見て、イエスさまは、《金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい》(18章25)と言いました。らくだが針の穴を通ることは現実的には不可能ですから、その場にいた人々が、《「それでは、だれが救われるのだろうか」と言うと、イエスは、「人間にはできないことも、神にはできる」》(18章27)と答えました。自分の力だけで、信仰を生き切ることはできません。神の愛の力によって、人は信仰を守のことができるです。

31節以下の「王のたとえ」は、この「神の愛の力」がどのようなものであるかを説明しています。神はよく考えた上で、圧倒的に数に勝る敵を迎え撃って勝利できると確信して、進撃したように描かれています。その進撃の仕方は、たった独りの息子を世に遣わすという仕方です。まさに、《神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された》(ヨハネ3章16)のです。神ご自身にとって、独り子を与えるとは、自分の全存在を与えることです。人を救うためにご自分を捨てる。それは、らくだに針の穴を通らせるという不可能を可能なものにするために、人間にはできないことも神にはできることを明らかにするために、です。

神にとっては、私たちに命を与えることが最も大事なことなのです。神は、私たちにすべてを与えてくださっているのです。神が御子イエス・キリストを私たちの救いのために送ってくださったとは、そういうことです。ただそのことによってしか、罪の力に支配されている私たちを救うことができないと確信されたからです。イエスさまの十字架に示された神の愛を信じる者が、少数であっても必ずいるはずだと確信されたのだと思います。だから、神は独り子をさえ惜しまずに与えてくださった。すべてを捨ててくださったのです。

独り子イエスさまは、神から遣わされたメシアとして、痛ましい十字架の死を経ての復活と昇天に向けての旅を始め、決然とした覚悟をもって最後まで歩み通されました。さまざまな妨害、敵意、憎しみに対峙しつつ、それでも人々を愛することを止めず、救いへ招くことを止めず、ついに自分を殺す者たちの罪が赦されて救われることを祈りつつ十字架の上で死んでくださったのです。イエスさまは、私たちを愛するが故に、ご自分の命を憎まれたのです。命までも捨てられたのです。

「王のたとえ」は、このような神とイエスさまのことを語っていると解釈しないと、《だから、(このイエスさまと)同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない》(33)という言葉が理解できないと思います。「どんな王でも」の「王」を、私たちのことと解釈すると、「だから、同じように」と繋がりません。塔を建てるたとえは、弟子として生きようとする者に対する忠告ですが、敵を迎え撃つ王のたとえは、神の戦いがどのような戦いであるかを教えているのだと思います。神は一切を捨てて、私たちを愛してくださっているのだ、と。

《自分の持ち物を一切捨てないならば》(33)とあります。きょうの箇所に出てくる「捨てる」は「別れを告げる」という意味です。それまで執着していたもの、これがなくては生きていけないと思っていたもの、そういうものに別れを告げるのです。現実には何を持っていてもよいのです。

富や権力を与えられたキリスト者は、それらのものを神の御心に従って使う責任が与えられています。かつては、富も権力も自分のためのものでした。それらがないと不安だったのです。しかし、今は自分の命は神が与えてくださったものであり、神が守ってくださるものであると信じているのですから、この世の思い煩いからは自由になり、すべてのものを神のために、神が喜んでくださるように用いていくことになります。新しい人間にされれば、見た目は変わらなくても、「自分の持ち物」との関係も新しくされるのです。

私たちがイエスさまの弟子となろうとするならば、自発的に自分の十字架を背負ってイエスさまについて行くしかありません。どんな危険が待ち構えていても、イエスさまに従っていくならば、神が面倒を見てくださいます。イエスさまが、私たちの中に生きてくださるのです。この世で長生きはできないかもしれませんが、永遠の命に生かされます。この世ですべてを失うかもしれませんが、最も大切なものは手にすることができるのです。その大切なものを与えるために、イエスさまは三度も「わたしの弟子ではありえない」と言いつつ、「わたしの弟子になりなさい」と招いてくださっているのです。

祈りましょう。天の父なる神さま。あなたが世を愛して御子イエスさまをお与えくださったことを喜び感謝します。その愛の力をいただいて、私たちが日々、自分の十字架を負って、イエスさまの後を歩めますよう見守り、導いてください。私たちの主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン