Sola Gratia

四旬節第3主日 説教

悔い改めか滅びか

1ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。 2イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。 3決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。 4また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。 5決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」

6そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。 7そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』 8園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。 9そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」

きょうの御言葉は、《ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた》(1)、と始まります。「ちょうどそのとき」とはどういう時でしょうか。直前のルカ12章でイエスさまは群衆に対して、「時を見分けよ」(54~56)、「訴える人と仲直りせよ」(57~59)と語っています。「終わりの日の裁きが迫っている。今こそあなたが仲直りをするとき、悔い改めるとき、今こそあなたが変わらなければならない時だ」、と教えていたのです。「ちょうどそのとき」、何人かの人たちがやってきて、ガリラヤ人(複数)が被害に遭った事件について知らせたのです。「ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた」ということです。

「血を混ぜる」という表現は、ユダヤ人たちがよく用いていた言い回しなのだそうです。神殿で動物の犠牲が献げられるときに、当然、動物の血が流されます。そのことを「血を混ぜる」と表現していたようです。つまり、ピラトが軍隊を派遣して、神殿境内で祈っているガリラヤ人たちの血を流した、殺したということです。

ピラトという人は、粗暴な支配者でした。この事件より後のことですが、サマリア人たちを虐殺する事件を起こして、ローマに呼び戻され、総督を解任されます(紀元35年)。今回の事件も、ピラトが起こしてしまった数ある事件のうちの一つだったのです。

「ガリラヤ人」という呼び方は、ローマの支配からの解放を目指す革命運動家を指すようになっていました。歴代のローマ総督は、反ローマ活動を鎮圧するために軍隊を繰り返し派遣したのです。

イエスさまはこの事件を、この差し迫った時に民に悔い改めをうながすきっかけにします。《そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。3 決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる》(2)。当時の人々は、律法を順守して罪のない生活をしていれば、神の護りと祝福にあずかり平和で栄えるが、律法に反する罪深い生活をすれば神の裁きにより不幸と災禍に陥るという考えが染みこんでいました。イエスさまは「決してそうではない」と言って、この考えをきっぱりと否定します。このような考え方の根底には、自分が罪を犯すことなく、律法にかなった正しい行為をしていれば滅びることはないという、自分の義を立てる姿勢があります。しかし、イエスさまから見れば、人間の義とか罪は相対的なもので、人間はみな神の裁きの前では滅ぶべき存在であり、神の無条件絶対の赦しの恵みによらなければ救われません。「皆同じように滅びる」は、人間の尺度からする義人も罪人も差別なく、終わりの日の神の裁きの前では皆同じように滅びるということです。では、どうすればよいのか。自分の正しさに依り頼まないで、自分の無価値と本性的な背信の罪を認め、その自分を神の無条件の恵みに委ねるほかありません。これが「悔い改め」です。

イエスさまは同じことを、最近エルサレムで起こった事件を引き合いに出して言います。シロアムは、エルサレムの南東の角にある池(貯水池)です(ヨハネ9章7)。水道工事のための塔が建っていたのでしょう。その塔が倒れて、十八人もの命が奪われました。この悲惨な事故を用いて、イエスさまは差し迫った終わりの日に備え、悔い改めるように、すなわちイエスさまが告げ知らせる神の恵みの場に来るように招きます。

なぜそんな悲惨な事件や事故が起こったのか、イエスさまはまったく答えません。もちろん、事件や事故に遭った人たちがほかの人たちよりも罪深いとも答えません。しかし、このことをイエスさまがもっとはっきりと語っている箇所があります。シロアムの池での出来事が記されたヨハネ9章です。

イエスさまはシロアムの池の近くで盲人に出会いました。そのとき、弟子たちがイエスさまに問いました。《この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか》(ヨハネ9章2)。弟子たちも、この人が盲人であるのは、本人か家族が罪深いからだと考えていたわけですが、イエスさまははっきりとこう答えました。《本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである》(ヨハネ9章3)。それから、イエスさまはその盲人の目に泥を塗り、シロアムの池で洗いなさいと命じます。その通りにすると、盲人は見えるようになったという奇跡が記されています。

イエスさまは悲惨な事件や事故や障がいがなぜ起こったのかという答えを一切語りません。イエスさまは弟子たちの目を、これから行なう神の業、癒やしの業に目を向けさせます。そして、あなたたちも「神に立ち帰りなさい」、「悔い改めて福音を信じなさい」と勧めているのです。

悔い改めるという言葉は、反省することとは違います。反省するというのは、自分の後ろを省みることです。神がいなくても、自分でできることです。悔い改めというのは「向きを変える」という意味があります。神に背中を向けていた、その自分自身の向きを変えて神の方向に向くことが、悔い改めるということです。旧約聖書では「立ち帰る」という言葉が用いられていますが、神に立ち帰るわけですから、神がいないと成り立たないことです。イエスさまは私たちに、神なしでの反省を求めているのではなく、神に悔い改めること、神に立ち帰ることを求めているのです。

そのことを伝えるために、イエスさまは、「実のならないいちじくの木」のたとえを語りにました(6~9)。ぶどう園の所有者が父なる神で、園丁がイエスさま、そしていちじくの木(単数)が、選ばれて特別の使命を与えられたイスラエル、すなわち私たち一人ひとりのことです。私たちはぶどう園に植えられたいちじくの木です。ぶどう園というのは、太陽がよく当たる場所であり、ぶどうの木にしてもいちじくの木にしても、条件のよい場所です。周りのぶどうの木はたくさんの実を実らせている中で、なぜかこのいちじくの木は、三年も実を実らせることができませんでした。

ぶどう園の主人は、「切り倒せ」と園丁に命じます。すでに洗礼者ヨハネはイスラエルの民に、《斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる》と叫んでいました(3章9)。ところが、園丁は待ってくださいと言います。このいちじくの木のために、周りを掘って、肥料をやると言います。いろいろと世話をしてくれるのです。いちじくの木としては、園丁が自分の身近にいて、いろいろと世話をしてくれて、多くの良いものに囲まれることになります。

私たちが教会にいるということは、この譬え話に出てきたいちじくの木のように良いものの中に身を置いているということです。自分自身を良いもので囲んでいただく。自分自身はすぐには変わらないかもしれません。けれども、園丁が一生懸命お世話をしてくれて、肥料を与えてくれるのですから、必ず次の年は実を結ぶことができるいちじくの木に変わるはずです。

イエスさまは私たちにこのようになることを求めています。軽く反省をして少しも変わらないというのではなく、悔い改めて、神に立ち帰ることを求めているのです。そのことは、いちじくの木のように、神が私たちに与えてくださる良いものに取り囲まれるときに初めてできることです。そのようにして、私たちは初めて変わることができるのです。悔い改めることができる。実を結ぶことができるのです。

祈りましょう。天の父なる神さま。あなたが御子を通して私たちに良い物を与えて導いていてくださることに感謝します。私たちもその恵みに応えて、あなたに立ち帰るという良い実りを結び、日々、御言葉に聴きつつ歩むことができますように。救い主、イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン