Sola Gratia

四旬節第2主日 説教

エルサレムのために嘆く

31ちょうどそのとき、ファリサイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに言った。「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています。」 32イエスは言われた。「行って、あの狐に、『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』とわたしが言ったと伝えなさい。 33だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ。 34エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。 35見よ、お前たちの家は見捨てられる。言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時が来るまで、決してわたしを見ることがない。」

四旬節の日々を歩む私たちにとって大切なことは、イエスさまの十字架への歩みを心に刻んでいくことです。そのとき、イエスさまの受難が「私のため」という的を外してしまっては何にもなりません。イエスさまを十字架へと引いて行った人々、まことの神を知らず、神の愛を知らず、神の子を亡き者にしようとした人々、その中に、イエスさまの救いにあずかるまでの私も居る。その私のために、イエスさまは十字架の苦しみをご自分の身に負ってくださったのです。

イエスさまの十字架への歩みは、たまたま、イエスさまを亡き者にしようとした人々の策略によって起きたということではありません。イエスさまは自ら進んで、エルサレムへの道を、十字架への道を歩んで行ったのです。この十字架への道こそが、神がご自身に与えた道であることを、イエスさまは知っていたからです。そして、それに従ったのです。イエスさまの十字架への道は、まさに神の御心によって備えられた道だった。そのことを、きょうの御言葉は明確に示しているのです。

きょうの聖書箇所は、《ファリサイ派の人々がイエスさまの所に来て、「ここを立ち去って下さい。ヘロデがあなたを殺そうとしています」》(31)、と告げたことから始まります。イエスさまの時代、ヨルダン川東岸のペレアは、ガリラヤと共に、ヘロデ大王の息子ヘロデ・アンティパスが領主として支配していました。このヘロデは、先に洗礼者ヨハネを殺しています(9章9)が、今度はイエスさまの命を狙っているというのです。

このとき、《イエスはエルサレムへ向かって進んでおられた》(13章22)のですが、ガリラヤからエルサレムに行くのに二つのルートがあります。一つは、真っ直ぐに南下してサマリアを通るルートです。もう一つは、一度ヨルダン川を東に渡り、ヨルダン川東岸地域(ペレア)を南下し、死海に近いところで再びヨルダン川を西に渡り、エリコを通ってエルサレムに至るルートです。ユダヤ教徒とサマリア教徒は仲が悪かったので、エルサレム神殿に巡礼するユダヤ教徒は、サマリアを避けてヨルダン川東岸ルートをとることが多かったようです。イエスさまが今旅をしているその道もまた、ヘロデの領地であるガリラヤとペレアを通るものでした。

イエスさまは、このファリサイ派の人々が告げた言葉に、強く反発しました。そして、《行って、あの狐に、『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』とわたしが言ったと伝えなさい》(32)、とへロデに伝言します。

ここで、ヘロデを「狐」と言っていますが、「狐」というのは、ユダヤ人にとっていちばん狡猾な動物であり、いちばん有害な動物でもあり、役に立たない人間を象徴しています。たとえ領主であろうと、どんなにこの世において権力を持っている者であろうと、神の御業をじゃましたり、止めたりすることはできない。「今日も明日も」、私は神の子として、神の意志を我が意志として、悪霊を追い出し、病気をいやしていくと宣言したのです。そして、「三日目にすべてを終える」と言います。この言葉が何を意味しているのかは、次の節の言葉が指し示しています。

《だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外のところで死ぬことはあり得ないからだ》(33)。このとき、イエスさまはガリラヤからエルサレムに向かっています。今まで多くの預言者がエルサレムで殺されてきたように、イエスさまもエルサレムで殺される。すなわち、死ぬためにエルサレムに行く、ということになります。いよいよ十字架の時が近づいて来ていることを暗示しています。

イエスさまは「今日も明日も」御心をなし続けるのです。イエスさまの御業は、今も止まってはいません。イエスさまの御業は二千年前の十字架と復活によって終わってしまったわけではないのです。今日も、明日も、続いているのです。悪霊を追い出し、病をいやし続けているのです。神こそ唯一の王であって、愛によって世界を支配するお方であることを明らかにするために、イエスさまはその御業を止めることはありません。四旬節の日々、私たちの目は二千年前のイエスさまの御業に向けられることが多いでしょう。しかし、その同じ目を持って、今日も明日も働いているイエスさまの御業を見なければなりません。

イエスさまはエルサレムを愛し、嘆いて言います。《エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった》(34)。なぜそのようにイエスさまはエルサレムに特別の愛着を感じ、そして悔い改めないことを嘆いているのか。それは、エルサレムが神によって選ばれた都だったからです。その昔、この町はダビデ王によってイスラエルのものとなりました。そしてソロモン王のときに、ここに神殿が建てられました。それなのに、神が遣わした預言者たちを打ち殺してきました。神を証しするはずのエルサレムの都の人々が、神の言葉を聞かない。神によって選ばれた民が、神の言葉を聞かない。そのことをイエスさまは嘆いているのです。

しかし、それは単にエルサレムだけの問題ではありません。それは神を信じない、神の言葉を聞こうとしないという、私たちすべての人の罪を嘆いているということにつながります。神の言葉を聞こうとしないということが、こんなにもイエスさまを嘆き悲しませるということです。

いつまで経っても悔い改めない、主の言葉を聞こうとしないエルサレムのことを思って、涙を流して嘆いたイエスさまが、そのエルサレムを見捨てるのではなく、救うためにエルサレムのゴルゴタの丘の十字架に向かっていくということです。

それは、私たちに対するイエスさまの愛とまったく重なります。今までどれほど、神は、めん鳥が雛をかくまうように、私たちを招いてきたことか。しかし、私たちはそれに気がつかないで、勝手な人生を歩んできました。そんな私たちを救うために、なおイエスさまは、ゴルゴタの丘の十字架を目指して進んでいくのです。

イエスさまはここで、自分がエルサレムで十字架の上で死ぬことを嘆いているのではありません。「エルサレム、エルサレム」と名を呼んで、エルサレムのために嘆いているのです。そのままでは、《見よ、お前たちの家は見捨てられる》(35)ではないか、と嘆いているのです。

このイエスさまの救いの御業は、すべての者の唇が神をほめたたえる日まで、決して止むことなく続きます。そして、今も続いているのです。四旬節の日々、私たちはこのイエスさまの嘆きを自分の嘆きとすると共に、イエスさまの救いの御業に感謝と信頼をもって心から立ち帰りたいと思います。

《主の名によって来られる方に、祝福があるように》(35)は、後にイエスさまがエルサレムに入城したときに、群衆が叫んだ言葉です(19章37~38)。この群衆の歓呼の声は、イエスさまが栄光をもって来られるときの先触れとなりました。イエスさまが再び来る時には、私たちは《顔と顔を合わせて見る》(1コロント13章12)のです。失われ、見捨てられていた神の民はそのとき、再び起こされ、ひとつに集められます。この賛歌は、その約束を告げているのです。それゆえ、私たちもまた聖餐式の始めにこの賛歌を声高らかに歌って、イエスさまをお迎えする思いを新たにするのです。そのときには、私たちは、めん鳥の翼の下に駆け込む雛鳥のように、神なる主イエスさまの翼の陰に身を寄せることが赦されているのです。

祈りましょう。天の父なる神さま。エルサレムは自らの繁栄を誇り、み心に背き、御子を受け入れませんでした。私たちもエルサレムの住民です。今御子の招きの声を聞き、心を翻して御許に立ち帰ります。み翼の陰に宿らせてください。救い主、イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン