Sola Gratia

四旬節第1主日 説教

イエス 誘惑を受ける

1さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、 2四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。 3そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」 4イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。 5更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。 6そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。 7だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」 8イエスはお答えになった。

「『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』

と書いてある。」 9そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。 10というのは、こう書いてあるからだ。

『神はあなたのために天使たちに命じて、/あなたをしっかり守らせる。』

11また、

『あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える。』」

12イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。 13悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。

四旬節の最初の主日には、世界中の多くの教会で「荒野の誘惑」の箇所が読まれます。今年はルカ福音書の該当箇所を読む順番です。

《さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった》(1)。イエスさまがヨルダン川で洗礼を受けたとき、《聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た》(3章22)のでした。こうして、イエスさまは「聖霊に満ちて」ヨルダン川から帰ると、ただちに「荒れ野の誘惑」に遭います。

私たちもまた、聖霊によって誕生し、聖霊によって生きる。それが私たちの教会生活です。しかし、今日の箇所は、そんな私たちもまた、誘惑との戦いを免れない、と注意を促します。

さて、そもそも「誘惑」とは何でしょうか。今日の箇所で誘惑の主体となっているのは「悪魔」です。しかし、《荒れ野の中を“霊”によって引き回され》(1)とあって、そこには強い神の意志があることが示されています。誘惑をするのは悪魔ですが、神があえてそこに導いたということです。ですから、これは単に「誘惑」という言葉では表しきれない内容を持っていることが分かります。「誘惑を受ける」と訳されている言葉は、「試練を受ける」とも訳せる言葉です。悪魔を主体として見る時に、それは誘惑となりますが、神を主体として見る時に、それは人間にとっての試練となります。

きょう読んだ聖書箇所は、荒れ野を旅したイスラエルの民の姿と重なります。「四十日間」という言葉も、イスラエルが荒れ野を旅した四十年間を想起させます。彼らを荒れ野に導いたのは神でした。何のためでしょうか。

今日の箇所でイエスさまが最初に引用した御言葉は、《人はパンだけで生きるものではない》(4)です。これは申命記8章3節からの引用です。イエスさまが念頭に置いていたのはやはり荒れ野を旅したイスラエルでした。イエスさまが引用した御言葉の直前には、こう書かれていました。《あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた》(申命記8章2)。

何のために荒れ野に導いたのか。何のための試練なのか。内にあるものが外に現れるためです。「主は・・・あなたの心にあること・・・を知ろうとされた」のです。イスラエルの民は、神によって海の中に開かれた道を喜びと賛美に溢れて渡って行きました。しかし、荒れ野へと導かれた時に、彼らの心にあるものが激しく現れることになりました。不信仰から出る、もろもろの不平・不満です。

試練など与えなくても神は人の心の内を知ることができたでしょう。内にあるものが外に現れることが必要なのは、むしろ人間です。確かに神に知られていることが人の目から見ても明らかにされる。それで初めて悔い改めもまた起きるのです。それはかつてのイスラエルにとってそうであったように、私たちにとっても同じです。そして、私たちに先立って、教会の基礎であるイエスさま御自身が、荒れ野に導かれて誘惑を受け、試練を受けています。そして、誘惑を退けて試練に打ち勝っている姿を私たちはそこに見るのです。

ルカ福音書は、イエスさまが受けた三つの誘惑を伝えています。

一つ目の誘惑は、《神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ》(3)です。悪魔はイエスさまが神の子であることも、石をパンにできるほどの力があることも知っています。それが分かっていたからこそ、囁くのです。石をパンにしてみたらどうだ、と。

世界にはすべての人が十分に食べていけるだけの食糧が与えられているにもかかわらず、私たちは正しく分配することができず、飢えている人が大勢います。その人たちにとって、石がパンになるという話は、とても魅力的です。ところが、イエスさまはそうはしません。悪魔の誘惑に対して、こう答えます。《『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある》(4)。申命記にはこう書かれています。《人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる》(申命記8章3)。「人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」、このことが神の御心であり、イエスさまの歩んだ道です。イエスさまは第一の誘惑を退けました。

二つ目の誘惑です。《この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だからもしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる》(6~7)。このような誘惑の言葉をかける前に、《悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた》(5)。霊的な高揚状態にして、世界の国々の幻を見せたのです。確かに、世界を見回してみると、ここに神に力が及んでいるというよりも、悪魔の力の方が強いのではないかという思いにさせられます。神が支配しているなら、なぜこのような悲惨なことが世界に起こるのか、と言いたくなります。イエスさまはこの誘惑に対して、こう答えました。《『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある》(8)。これは申命記6章13節の言葉です。イエスさまは自分の上に神以外のものを置くことをしないと言います。主を拝み、ただ主に仕える。それこそが真実の神の国で私たちがなすことなのです。

三つ目の誘惑です。《悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる。』また、『あなたの足が石に打ち当ることのないように、天使たちはあなたを手で支える。』》(9~11)。悪魔は今度は自分が聖書の言葉を用いて誘惑を試みます。悪魔も聖書を知っていて、詩編91編の中から、二つの言葉を引用して誘惑します。神の子なら飛び降りたらどうだ。天使たちが守ってくれる、足が石に打ち当たることがないように支えてくれると書いてあるではないかと。イエスさまは悪魔に対して、こう

答えます。《『あなたの神である主を試してはならない』と言われている》(12)。これも申命記6章16節の言葉ですが、悪魔が提案するように、神を試すような方法をイエスさまは取らずに、この誘惑を退けました。

この第三の誘惑は、やがて起きる、同じエルサレムにおけるイエスさまの受難を指し示しています。《悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた》(13)と書かれていますが、やがてその「時が来る」のです。それはイエスさまの十字架の時です。祭司長たちは叫びます。《神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから》(マタイ27章43)。しかし、そこでもイエスさまは最後の誘惑に打ち勝ちます。《父よ、わたしの霊を御手にゆだねます》(ルカ23章46)と言って、イエスさまは息を引き取ったのでした。

こうして、悪魔の勝利で終わったかに見えた、その先に復活がありました。イエスさまは罪の力にも死の力にも、そして悪魔にも完全に勝利したのです。このお方が私たちの救い主です。私たちにも悪魔は神から引き離そうとして誘惑をしかけてきます。しかし、私たちはこの勝利のもとで戦うだけです。完全な敗北などもはやないのです。

祈りましょう。天の父なる神さま。御子は神から引き離そうとする悪魔の誘惑に打ち勝ち、私たちの歩むべき道を切り開いてくださいました。御子にならい、神を敬い隣人を愛する道を進めますよう、私たちの歩みを守り、導いてください。救い主、イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン