Sola Gratia

顕現後第4主日 説教

イエス 故郷で拒否される

21そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。 22皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」 23イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」 24そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。 25確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、 26エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。 27また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」 28これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、 29総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。 30しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。

先週は、イエスさまが故郷ナザレの会堂において、イザヤ書61章の冒頭の言葉を朗読したのち、《この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した》(21)と宣言されたという記事を読みました。

きょうの箇所はその続きで、それを聞いたナザレの人々の反応が書かれています。最初の反応は、こうでした。《皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いた》(22)。彼らはまずイエスさまを称賛しました。イエスさまの語り口は、他のどんな人とも違っていたのです。少しあとの箇所に、カファルナウムの会堂における説教についても、《人々はその教えに驚いた。その言葉に権威があったからである》(32)とありますように、ナザレの人々の反応も同じようだったのでしょう。

信仰は、驚きから始まります。この恵み深い言葉は一体何だろう。こんな言葉は聞いたことがない。そして次第に、それが言葉だけではなく、確かな根拠をもっていることが分かってきます。そしてこの私にも、それが語られ、私にもその恵みが与えられていることを知り、それを受け入れていくのです。それが信仰です。

しかし、みんながそれを受け入れるとは限りません。残念ながら、この驚きはつまずきを含んでいます。人間の体でも移植などをして異質なものが入ってくると、まず拒否反応が起きます。それを受け入れていくために、体のどこかが変わっていかなければなりません。イエスさまの言葉も、そういう異質な言葉なのです。それを受け入れるためには、私たち自身が変わらざるを得ませんから、自分が変わろうとしない時には、そこで拒否反応が起こってきます。福音はつまずきを内に含んでいるのです。

イエスさまの言葉に驚いた人は、それを受け入れるにしても、拒否するにしても、なぜそうするのかを自分なりに納得のいく説明が必要になるでしょう。ナザレの人々は、こう言いました。《この人はヨセフの子ではないか》(22)。この言葉自体は、ただ事実を語っているもので、どちらの意味にも取れます。「あのヨセフの子がこんなに素晴らしい言葉を語っている。何とうれしいことだろう」と思った人もあるでしょう。しかしまたある人は、「あのヨセフの家族から、そんな大それた人物が出るはずはない」、と自分で自分を納得させ、驚きを解消させて、拒否していくのです。私たちは、身近にいる人ほど、その真価を見抜きにくいということもあるでしょう。イエスさまも、《預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ》(24)と言っています。

イエスさまはさらにこう言います。《きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない》(23)。「医者よ、自分自身をいやせ」ということわざは、「他の町の人をいやすより、自分たちの町の人を何とかしてくれ」という意味合いで引用しているのだと思います。そうであれば、これは、イエスさまが身近であったからその真価を見抜けなかったということにとどまらず、イエスさまの身近な存在である自分たちこそ特権を持っているという意識の問題になります。そしてこれは、ナザレの人々だけの問題ではなく、もっと大きな問題を指し示すことになります。

そもそもなぜ「カファルナウム」での出来事が引用されているのか。当時のカファルナウムには、ユダヤ人以外の人、異邦人が多く住んでいたと言われます。7章に出てくるローマの百人隊長の僕をいやしたのもカファルナウムでのことです。イエスさまの恵みは、ユダヤ人という枠組みを超えて、どんどん広がっていきます。そのことがルカ福音書の根本的な主題でもあります。恵みは、異邦人にまで惜しみなくどんどん広がっていくのです。

そのことに対するユダヤ人たちの反応が、このナザレの人々の姿の中に映し出されているわけです。「自分たちこそ特権をもっている。その恵みを外部の人にまでばらまくのはけしからん」ということです。

イエスさまは、ここで二つの旧約聖書の話を引用しますが、それはまさにそのことに関連しているのです。この、偉大な預言者であるエリヤとエリシャの話は、人々にとって良く知られた話でした。

25~26節の預言者エリヤの話は、列王記上17章に出てきます。飢饉が続き、雨がまったく降らなかったときに、エリヤは一人の異邦人のやもめを訪ねます。エリヤは彼女の家で、壷の中の粉がなくならず、瓶の油もなくならない奇跡を起こして助けてあげました。その男の子が死んでしまったときにも、神に祈って生き返らせてあげました。27節の預言者エリシャの話は、列王記下5章に出てきます。この出来事はエリシャがあえて非ユダヤ人であるナアマンをいやしたというものです。

イエスさまは、この話を引用しながら、神の恵みが約束の民であるユダヤ人だけではなく、異邦人にも降り注がれているということをはっきりと示そうとしたのです。ここで大事なことは、旧約聖書にすでにそのように、ユダヤ人を超えて働く恵みの出来事がたくさん記されているということです。

しかし、《これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを待ちの外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした》(28~29)のでした。これは、イエスさまの歩み全体を象徴するような出来事でした。最初に称賛がありました。しかし、いぶかしく思って、拒否する人々も出てきました。そのうちに怒りがこみあげてきて、ついには殺そうとするまでになったようです。このナザレの人々の反応の中に、すでにイエスさまの十字架が見えています。なぜイエスさまが十字架にかからなければならなかったかということが現れているのです。

イエスさまはこのときは、《人々の間を通り抜けて立ち去られ》(30)ます。まだ十字架の時ではなかったからです。人間の思いと神の計画がぶつかるところで、私たち人間の思いを越えて、神の計画が優先します。その神の計画のもとで、私たちが守られ、導かれていることを信じたいと思います。

これは、ユダヤ教とキリスト教の違いということではありません。旧約聖書の中にもそういう垣根を取り払う神の姿があるのです。たしかに聖書には、恵みを一部の選ばれた人にだけ与えようとする一面と、その垣根を取り払おうとする一面の両方があります。しかしどちらに本当の神の御心があるのかということを、私たちは謙虚に問わなければなりません。

恵みはクリスチャンにのみ与えられるのか、すべての人に注がれているのか。もちろん、それを恵みとして受けとめるかどうかは、個々の人の姿勢の問題です。それはともかく、その恵みがもしも他のすべての人にも注がれているとしたら、どうでしょうか。私たちも、もしかしたら、このナザレの人々と同じように憤慨するかも知れません。

しかし、神の思い、イエスさまの思いは、そういう私たちの思いをはるかに超えて広いということを、よくわきまえていなければなりません。私たちの天の父は、《悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる》(マタイ5章45)方なのです。

イエスさまは天の国のたとえとして、ぶどう園で人を雇う話をされました。主人は、朝6時から働いた人にも、夕方5時に来た人にも同じように1デナリオンを支払ってやり、最後にこう語ります。《わたしはこの最後の者にも同じようにしてやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないのか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか》(マタイ20章14~15)。私たちは、この神のもとでこそ、恵みが広がっていくということ、そしてだからこそ、私にもそれが注がれているということを知らされるのです。

祈りましょう。天の父なる神さま。御子イエスさまの福音は人に喜びをもたらすものでありつつ、人の思いに反するために無視・拒否・敵意を受けました。私たちの思いを清め、福音のみ言葉を喜んで受け入れる新しい人に変えてください。救い主、イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。