Sola Gratia

顕現後第3主日 説教

イエス 伝道を始める

14イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。 15イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。

16イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。 17預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。

18「主の霊がわたしの上におられる。/貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。/主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、/19主の恵みの年を告げるためである。」

20イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。 21そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。

イエスさまのガリラヤ伝道は、《イエスは・・・、ナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようして・・・》(16)とあるように、安息日に会堂の礼拝で福音を告げ知らせることが基本的な形でした。

そして、当時の礼拝の様子が、《イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた》(20)と描かれています。人々は安息日に礼拝するために会堂に集まります。そこでは、祈りと賛美が捧げられ、聖書が朗読されます。係の者がいて、会衆の中から選んだ人に聖書を手渡し、朗読してもらいます。この聖書とは、私たちが旧約聖書と呼ぶものです。また、当時の聖書は冊子の形ではなくて、巻物でした。朗読する箇所は自由に選べたようです。朗読は立って行います。朗読が終わると、係の者に聖書を返します。そして朗読した人が今度は座って、朗読箇所について短い説教を行います。

イエスさまは、《お育ちになったナザレ》という村に帰って来て、ナザレの会堂で礼拝を守り、聖書朗読と説教の当番に指名されたわけです。これから説教を語ろうとしたとき、「すべての人の目がイエスに注がれて」いました。

イエスさまは《およそ三十歳》(3章23)のころ故郷のナザレを出て、福音の伝道を始めていました。こう記されています。《イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた》(14~15)。イエスさまの評判はナザレにまで伝わっていたことでしょう。自分たちの間で育ったあのイエスが、どうやら評判の人になり、皆から尊敬を受けているらしい。そのイエスが礼拝での当番に当たる。この人から一体どんな言葉が語られるのだろうかと、イエスさまは、そこにいたすべての人の注目を浴びたのです。

係の者から預言者イザヤの巻物が手渡されました。イエスさまは巻物を開いて、イザヤ書61章1~2節の言葉を見つけて朗読します。《主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、・・・主の恵みの年を告げるためである》(18~19)。

このイザヤの預言は、イエスさまが洗礼を受けたときに実現したのです。すなわち、イエスさまが《洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降ってきた。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえた》(3章21~22)。この出来事において実現したのです。この出来事において、イエスさまは聖霊によって油を注がれ、キリスト、すなわち救い主とされたからです。そしてそれは「貧しい人に福音を告げ知らせるため」でした。ルカ福音書において、「貧しい人」とは、経済的に抑圧されている人々だけではなく、より広く社会から排除された人たちも含んでいます。油注がれた方(キリスト)は、社会から排除された人たち、社会の外側にいる人たちにも福音を告げ知らせる、と預言されているのです。

神がイエスさまをこの世にお遣わしになったのは、《捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由に》(18)するためです。ルカ福音書において、目の見えない人が視力を回復するのは、身体的な事柄であるだけでなく、救いを経験することの比喩でもあります。たとえば、シメオンが幼子イエスを抱き、《わたしはこの目であなたの救いを見た》(2章30)と神をたたえて言ったように。

また、この「捕らわれている人の解放」や「圧迫されている人の自由」は、もともとのイザヤ書の文脈では、イスラエル王国の滅亡によって捕らえられ国外へ連れて行かれた人たちの、捕囚からの解放を語っていました。しかし、ルカ福音書がイザヤの預言の成就として「解放」を語るとき、そこではイエスさまによる罪の赦し、罪の力からの解放が語られているのです。ですから、イザヤの預言が成就するとは、イエスさまによる罪の赦しが実現する、ということなのです。

イエスさまは、この聖書朗読に引き続いて、説教を語りました。その説教の最初の言葉はこうでした。《この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した》(21)。この言葉こそ、イエスさまがここで語られた説教の中で、最も大切な言葉なのです。

実現するのは「今日」という日です。しかも、「あなたがたが耳にしたとき」です。聖書の言葉というのは、もちろん著者がまず記します。ルカ福音書であれば、まずルカが書きます。そしてその書かれた言葉が朗読されます。その朗読を耳にする者がいます。そして耳にしたそのとき、「今日」という日に、その言葉が実現する、とイエスさまは言うのです。

このとき、イエスさまが強調して言ったのは、この聖書の言葉は、書かれた過去の日にもう実現して、それっきりというのではない。将来のある日に実現するだろうというのでもない。今日、この箇所が読まれて聞かれたときに、この言葉が実現した、と言うのです。ルカによる福音書では、「今日」という言葉が一つの大切なキーワードになっています。多くの箇所で使われていますが、いまは二箇所だけに触れたいと思います。

一つはザアカイの物語です。税金を徴収する仕事をしていたザアカイは、ある日、イエスさまと出会います。ザアカイは背が低かったので、群衆に遮られて、イエスさまのことを見ることができません。そこで木に登りました。するとイエスさまの方からザアカイが登っていた木のところに来て、言います。《ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい》(19章5)。ザアカイは喜んで降りて来て、イエスさまを家に迎えます。そしてイエスさまは、家でこう言いました。《今日、救いがこの家を訪れた》(19章9)。ザアカイにとっての救いの日を、イエスさまは「今日」と言います。他のどの日でもありません。ザアカイがイエスさまに出会った日が、「今日」という救いの日です。もちろんこのときにザアカイはイザヤ書61章の言葉を耳にしたわけではありません。しかしイエスさまと出会うことによって、イザヤ書に記されている言葉と等しいことが、ザアカイにとって実現するのです。イエスさまとの出会い、それが救いにつながります。

もう一つ、取りあげたいのは、イエスさまが十字架にかけられたときのことです。二人の犯罪人が、それぞれイエスさまの右と左に十字架につけられていました。犯罪人の一人がイエスさまをののしると、もう一人がそれをたしなめて、イエスさまに言います。《イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください》(23章42)。すると、イエスさまは答えて言います。《はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる》(23章43)。

イエスさまは、さまざまな人たちに出会い、救いをもたらしてくださっています。その救いの日、それが「今日」という日です。その「今日」という日が、次々と起こっているのです。イエスさまというお方は、決して過去の人ではありません。イエスさまが地上を歩まれたその時代の人だけに、出会われただけではないのです。その後を生きた人たちとも出会ってくださいましたし、今を生きる私たちとも出会ってくださいます。そして救いへと導いてくださいます。私たち一人一人にとっても、「今日」という日があるのです。救い主に出会う「今日」という日が与えられるのです。

今日の礼拝でも、私たちはイエスさまにお会いしています。礼拝で聖書が読まれ、説教が語られます。「今日」という日に、私たちに一番ふさわしい聖書の言葉が与えられ、神の言葉を聴くことができます。イエスさまが「あなたの救いは、今日、実現した」と宣言してくださいます。だからこそ、私たちは沈黙をして、御言葉を待ちます。「今日」という日に、神が私たちに最も必要なことを語りかけてくださることを信じ、私たちは御言葉を待ち望むのです。

今日もまた、神が新たなことを私たちにしてくださるのです。

祈りましょう。天の父なる神さま。あなたが御子イエスさまに聖霊を注ぎ、福音を告げ知らせてくださった恵みを感謝します。被造物はこぞってあなたの救いを待ち望んでいます。救いの福音に向けて、私たちの目と耳を開いてください。救い主、イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。