Sola Gratia

顕現後第2主日 説教

最初のしるし

1三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。 2イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。 3ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。 4イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」 5しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。 6そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。 7イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。 8イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。 9世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、 10言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」 11イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。

12この後、イエスは母、兄弟、弟子たちとカファルナウムに下って行き、そこに幾日か滞在された。

きょうの御言葉は、「カナでの婚礼」と呼ばれる箇所です。ガリラヤ地方のカナという村で結婚式があり、そこにイエスさまも出席していました。宴の途中でぶどう酒がなくなったとき、イエスさまは水がめの水をぶどう酒に変えるという奇跡を行ないました。

しかし、この結婚式の第一の幸いは、水がぶどう酒に変わった奇跡にあるのではなく、イエスさまがその場にいて祝福してくださっていたところにあります。この結婚式は、イエスさまの祝福の中で挙げられたのです。この結婚の宴の中で、ぶどう酒が足りなくなるという事態が生じたのですが、イエスさまが水をぶどう酒に変えるという奇跡でその場を救ってくださいました。イエスさまが共にいて祝福してくださる結婚式そして結婚生活は、何と幸いなことでしょう。どんな不測の事態に見舞われても、このカナの婚礼の時のように、イエスさまが必ず守ってくださいます。私たちは結婚のことを思うとき、何よりもまずそのことを神に祈らなければならないでしょう。それは何も、これから結婚する二人だけのことではありません。もう長く結婚生活をしてきた方々も、そのことを改めて思い、祈りを新しくしていただきたいものです。

このカナでの婚礼が誰のものだったのかは書かれていませんが、母マリアがいて、イエスさまと弟子たちも招かれていました。問題は、この結婚の宴の最中にぶどう酒がなくなってしまったことです。当時の結婚の宴は三日から一週間も続いたといいます。その間、食事が出され、ぶどう酒が出され、音楽が鳴り、踊りが続くのです。それは夜まで続き、そして次の日の朝からまた始まるのです。親戚、友人、みんなが招待されます。しかし、ぶどう酒がなくなっては、せっかくのお祝いも興ざめに終わってしまいます。

そのとき、母マリアがイエスさまの所に来て言います。《ぶどう酒がなくなりました》(3)。だからどうして欲しいとは言わず、ただ困った状況だけを告げます。多分、マリアは裏方で食事の用意などをしていて、ぶどう酒がなくなったことにいち早く気付いたのでしょう。イエスさまのこの時の答えは、実に素っ気ないものでした。《婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません》(4)。マリアに対して「母」とも言っていません。「わたしの時」というのは、イエスさまが救い主としてその栄光を明らかに現す時のことであり、それは十字架と復活の時のことです。人間が思うような形で神はご自分を現すのではない。神が良しとされる時と所に現される。それが私たちの信仰です。

マリアはイエスさまが必ず何かをしてくださると信じて、その時を待ちつつ、自分のなすべきことを行ないます。召し使いたちにイエスさまを紹介して、《この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください》(5)と言いました。ここには、母の心が「神ご自身が良しとされるところに従って事をなしてくださる」という絶対的な信頼へと導かれた様子がうかがえます。私たちも、このマリアほどにイエスさまを信頼したいと思います。「祈ったところでどうなるか分からない」というのではなく、「祈りは聞かれる」という信頼をもって祈りたいと思います。それでこそイエスさまは働いてくださるのでしょう。

イエスさまは自分にすべてを委ねきっている信頼を退けることはありません。イエスさまは召し使いたちに《水がめに水をいっぱい入れなさい》(7)、と命じます。そこには清めに用いる石の水がめが六つありました。この水は、この結婚式に来た人たちが手を洗うために家の入り口に置いてあったものです。結婚式にたくさんの人が来るので、たくさんの水がめが用意されていたのでしょう。それらは《二ないし三メトレテス入りのもの》(6)であったとあります。聖書の付録の単位表によると、1メトレテスは39リットルですから、この水がめはおよそ100リットルほども入る相当大きなものです。召し使いたちは、全部の水がめを縁まで水で満たしました。村の井戸まで行って水を汲んでくるのですから、大変な労力だったと思います。

次にイエスさまは、《さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい》(8)と言います。召し使いは言われたとおりに運びます。世話役がそれを飲むと、それは上等な良いぶどう酒に変わっていました。世話役は驚いて、花婿を呼んで言います。《だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました》(10)。世話役は《このぶどう酒がどこから来たのか》(9)知りませんでした。この「どこから来たのか」には、二つの意味があります。一つは「水がめの水から」ということですが、もう一つは「本当は何なのか」ということです。ぶどう酒はイエスさまによって水が変えられたのですから、このぶどう酒は天から来たものであり、イエスさまが誰であるかを示す「しるし」だということです。

イエスさまの隠された本質、すなわち神の御子であることの、目に見える「しるし」であるこの奇跡を見て、《弟子たちはイエスを信じた》(11)のです。弟子として召された者たちが、信じる者へと造りかえられました。この出来事を通して、違う者へと新たに造りかえられていったのです。

その場にいた多くの人たちも、このぶどう酒を飲みました。イエスさまの奇跡の恵みにあずかったのです。しかし、それが「何であるか」、「どこから来たのか」を知らなかったので、イエスさまを信じることにはなりませんでした。

イエスさまの御業、神の御業はいつも私たちを取り囲んでいますが、多くの人はそれを当たり前のこととしか思わず、神に感謝することはありません。しかし、私たちはそうではありません。私が今日生かされている。私がこの人と出会って結婚した。この子が与えられた。この両親のもとで育った。それらはみんな、神の御手の中にあることを私たちは知らされました。私たちの日々のささやかな営み、当たり前のように思っている歩みの中にも、神の深い配慮と支えと守りがあるのです。すべては神の御業の中で生かされている。このことを知ったとき、私たちも弟子たちと同じように、イエスさまを信じ、イエスさまを賛美し、感謝する者へと、新たに造りかえられたのです。

最後に、イエスさまがこの水をぶどう酒に変えた意味を考えてみましょう。この水がめの水は食事の前に手を洗うためのものです。それは公衆衛生上の問題ではありません。律法の定めによる、ケガレの問題です。ユダヤ人は「異邦人はケガレている」ので、異邦人が触れたものに触れれば自分もケガレてしまうと考えていました。ですから、外から帰ってきたら手を洗う。そして食事の前には念入りに手を洗うことにしていたのです。

ところが、イエスさまは、その清めのための水をすべてぶどう酒に変えてしまうことにより、もうこの清めの水を必要とするような信仰のあり方は終わりだということを示したのです。そして、その清めの水に代わったのがぶどう酒です。ここで、「清めの水」はユダヤ教律法の究極の姿を表わしている一方、「ぶどう酒」はイエスさまにおいて実現した神の救いの恵みを象徴的に表わしています。つまりイエスさまは、このカナの婚礼の奇跡において、ユダヤ人だけが救われる、異邦人はケガレている、そういう信仰のあり方そのものの終わり、そしてイエス・キリストの十字架の血による贖い、罪の赦しにすべての人があずかる、そういう神の恵みに生きる信仰の世界の始まりを、ここで示したのです。すべての人々の日常は、本人が知らないところで大いに働いてくださっている神の御業のゆえに、保たれている日々なのです。

祈りましょう。天の父なる神さま。御子イエスさまは水をぶどう酒に変える奇跡を通して、ご自分が誰であるかを示されました。私たちが聖書の御言葉を通してあなたの赦しの愛を信じて生まれ変わることができるよう聖霊を注いでください。救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。