主の洗礼 説教
イエスの洗礼
- 2022年1月9日(日)
- 主の洗礼
- ルカ3章15~17, 21~22
15民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。 16そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。 17そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」
21民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、 22聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。
《15 民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。16 そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。17 そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」》
旧約聖書は、メシア(救い主)が来ることを預言していますが、洗礼者ヨハネやイエスさまが活動した時代はとくに、ユダヤ人たちのメシア待望が燃え上がっていました。使徒言行録5章36~37に、「その時が近づいた」と主張し、自分がメシアであると名乗る者が現れて、騒乱が起きたことが記されています。《以前にもテウダが、自分を何か偉い者のように言って立ち上がり、その数四百人くらいの男が彼に従ったことがあった。彼は殺され、従っていた者は皆散らされて、跡形もなくなった。その後、住民登録の時、ガリラヤのユダが立ち上がり、民衆を率いて反乱を起こしたが、彼も滅び、つき従った者も皆、ちりぢりにさせられた》。イエスさまも民衆にこう警告しています。《惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない》(ルカ21章8)。私たちはイエスさまが言われるように、誰が本当の救い主なのかということに、たえず注意を払い、惑わされないようにしなければなりません。
洗礼者ヨハネの、霊の力に溢れ、権威ある言葉を聞いた民衆は、このヨハネこそ終わりの日にイスラエルに遣わされると約束されていたメシアではないかという期待を持つようになりました。そこで、ヨハネは集まって来た群衆に、自分はメシアではないとはっきりと告げて、こう言います。《わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる》(16)。「わたしよりも優れた方」とは、イエスさまのことです。そのイエスさまが授ける洗礼は、ヨハネが授けていた水による洗礼とは異なり、「聖霊と火」による洗礼であると言います。
この「聖霊と火」による洗礼とは、多くの学者が、ペンテコステ(五旬祭)の日の洗礼を指していると説明しています。
その「ペンテコステ」とは、イエスさまの十字架と復活の出来事が起こり、さらにイエスさまが昇天したのち、残された弟子たちがエルサレム神殿にいたときに起こった出来事を言います。その日、《炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした》(使徒言行録2章3~4)のです。
この出来事に集まって来た人々に対して、ペトロは立ちあがって説教を語ります。その説教が終わると、聴いていた者たちは、ペトロたちに「私たちはどうしたらよいのですか」と問います。するとペトロが答えました。《悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます》(使徒言行録2章38)。このとき以来、授けられたのが「聖霊と火による洗礼」です。
この「聖霊と火による洗礼」のイメージは、次のように描かれています。《そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる》(17)。脱穀場がきれいにされます。どのようにしてきれいにされるのかと言うと、麦が倉に入れられ、殻のほうは、消えることのない火で焼き払われるのです。
火で焼き払うというのは、厳しいイメージですが、神は、罪があるままの状態を決して良しとはされません。ですから、罪の問題が解決されなければならないのです。麦は殻がついたままでは倉の中に入ることができなかったように、私たちも罪のままでは神の国には入ることができないのです。
したがって、このことは、私たちにとって福音、良き知らせです。神は私たちを罪のままにはしておきません。その問題を解決してくださるのです。それが、脱穀場を隅々まできれいにすることであり、殻を消えることのない火で焼き払うことであって、「聖霊と火による洗礼」です。私たちの罪を赦してくださる洗礼です。この洗礼が、イエスさまのもとにあるのです。ですから、イエスさまこそが、私たちの救い主なのです。
結局、ヨハネがしたことは、《福音を告げ知らせた》(18)ことでした。言い換えると、それは救い主を紹介したことです。救い主はこのお方で、このお方のもとに救いがあるということを、良き知らせとして伝えたのです。
《21 民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、22 聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。》
イエスさまはこのとき、民衆の中の一人として、洗礼を受けました。ヨハネが民衆に、《わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる》(16)と語った、その民衆の中に、実は、イエスさまがいたのかもしれません。イエスさまは、罪を悔い改めて洗礼を受ける民衆と一緒に、洗礼を受けました。イエスさまは神の子であるにもかかわらず、罪人と共に洗礼を受けました。そのとき、イエスさまは《祈っておられ》(21)ました。何を祈っていたのか記されてはいませんが、一緒に洗礼を受けていた民衆の罪の執り成しを祈ってくださっていたのだと考えられます。
イエスさまが十字架につけられたときも、そうでした。これは、ルカ福音書だけが記されていることですが、《父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです》(23章34)、と執り成しの祈りをされました。周りの罪人のために執り成してくださる。イエスさまはそういうお方です。私たちは、イエスさまが祈ってくださる祈りに支えられているのです。
ところで、イエスさまが《洗礼を受けて祈っておられると、天が開け》(21)るということが起こりました。そして、《聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た》(22)ということも起こりました。このことは、イエスさまの祈りが聞かれた結果だと思われます。イエスさまが祈った、その祈りが、父なる神によって聞かれて、天が開くということが起こったのです。
イエスさまがここで受けた洗礼は、ヨハネからの「水」による洗礼でありながらも、それに留まらなかったのです。祈っていると、天が開け、聖霊が降りました。「聖霊と火」によるまことの洗礼を、このとき初めて、イエスさまが受けることになったのです。その意味で、イエスさまは、まことの洗礼の初穂です。初穂とは、最初の実りのことです。その後に、続々と実りが続きます。イエスさまは実りの初穂であり、その後に私たちも続くことになりました。私たちが今、受ける洗礼もまことの洗礼です。そのまことの洗礼を初めて受けられた方がイエスさまです。私たちがイエスさまの後に続くことができるようにしてくださったのです。
きょうの御言葉の最後に記されているのは、天からの声です。《あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者》(22)。この箇所を原文に忠実に訳すと、「あなたは、わたしが喜びとする、わたしの愛する子である」、となります。あなたは私の愛する子であるとともに、あなたは私の喜びであると言うのです。洗礼を受けたときに天から響いてくるのは、この声なのです。
悔い改める罪人が洗礼を受ける。そのことは、ルカ福音書15章の有名なたとえ話の表現をまねて言うと、それは、見失われた一匹の羊が羊飼いのもとに帰ってくることであり、放蕩の限りを尽くした息子が父のもとに帰ることなのです。洗礼とは、神のもとに帰ってくる喜びです。それは、私たちの喜びであると同時に、神の喜びでもあります。私たち一人一人が洗礼を受けたとき、神が喜んでくださるのです。天には大きな喜びがあるのです。
神のもとを離れていた罪人が、神のもとに戻る。失われていた人が回復する。その人が洗礼を受けて生まれ変わる。これ以上の喜びはありません。私たちが洗礼を受けて、天にも地にも喜びがあるようにしてくださったのは、まずイエスさまが私たちに先立って洗礼を受けてくださったからです。イエスさまの執り成しの祈りに支えられているからです。すべてにイエスさまの支えがあるのです。
祈りましょう。天の父なる神さま。御子イエスさまが「聖霊と火による洗礼」を受けて、私たちもその洗礼にあずかる道を開いてくださったことを感謝します。この新しい年もイエスさまの執り成しに支えられつつ、御足の跡を歩めますように。救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。