Sola Gratia

降誕節第2主日 説教

父の独り子なる神

10言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。 11言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。 12しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。 13この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。

14言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。 15ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」 16わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。 17律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。 18いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。

きょうの福音書は、《言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった》(10)、と始まります。この「言(ことば)」というのは、イエス・キリストのことです。イエス・キリストという名前を用いないのは、この世に生まれる前からいたイエス・キリスト、父なる神のふところにいた時からのイエス・キリストのことを言い表しているからです。

《世は言によって成った》。この世界はイエス・キリストの意志で作られたにもかかわらず、そのイエス・キリストが直接やって来たとき、この世は自分を成り立たせている根源である、そのイエス・キリストを認めなかった、と言います。《言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった》(11)。ここで「自分の民」というのは、「選ばれたイスラエルの民」と読むこともできますが、私たちも含めたすべての人間のことを言っていると受けとめる方がよいと思います。これは、「自分の家に来たのに、家の者から他人のような扱いを受けた」(柳生直行訳)ということです。

「まことの光」である「言」が《世に来てすべての人を照らす》(9)とき、闇の世はそういう拒否反応を示します。本当のもの、真実なものがやってくるとき、偽りの世界は、それを嫌い、恐れて、拒否するような反応を起こすのです。真理の光自体が、それを受け入れるか拒否するか、この世界を分断させるような力をもっているということです。イエスさまは別のところで、自分は《剣をもたらすために来た》(マタイ10章34)と言いましたが、そのように鋭く、人を峻別するような力をもった「言」として来たのです。

《しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた》(12)。これは、ただイエス・キリストを受け入れる、ということです。そういう人に無条件で、神の子となる資格を与えられます。それがクリスマスの日に、私たちにもたらされた大きな福音です。そのようにイエス・キリストの名を受け入れた人々は、《血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである》(13)。これは、私たちに無条件で与えられている本当に大きな福音です。

ルカ福音書では、野宿しながら、夜通し羊の群れの番をしていた羊飼いたちに天使が現れて、救い主が生まれたこと、飼い葉桶に寝かされていることを告げました。このクリスマスの同じ出来事をヨハネ福音書は、《言は肉となって、わたしたちの間に宿られた》(14)、と言い表わしています。これが今朝、私たちに与えられたクリスマスの御言葉です。この御言葉は、とてつもなく大きな事件について述べています。文字通り、天地創造以来の大事件です。静かな夜に、誰も気づかないようなところで起きた出来事でしたけれども、私たちの歴史を根底から覆すほどの大きな事件です。

この「言」とは、天地創造以来、天にあって《神と共にあった》(1)お方です。端的に《言は神であった》(1)とも書かれています。その「言」であるお方が、今、私たちと同じ肉体を取って、人間となって、私たちの世界に来られたということなのです。

これは大変大きな出来事を語っています。私たちの常識を覆す事件です。私たちの常識からすれば、神と人間は違います。人間の方はいつも神のようになりたいという思いを持っていました。アダムとエバが蛇にそそのかされて、神が食べてはならないと言われた木の実を食べてしまったのは、「神のように」なりたいと思ったからでした(創世記3章4~6)。天にまで届くバベルの塔を建てようとしたのも、「神のように」なりたいと思ったからでした(創世記11章4)。しかし、それは不信仰であり、神はそのような人間の思いをうち砕かれました。

またその後も、神は預言者たちを遣わして、神と人間は違うのだということを示し続けてきました。それが旧約聖書の歴史です。神と人間を混同するのは、神を冒涜することに他なりません。神と人間は別物で、決して混ざり合わないし、決して一つにはなりません。神の方でも、きちんとした一線を引いてこられました、今から二千年前のクリスマスの日までは。しかしその日、天地がひっくりかえるような出来事、神が人間の体をもって、私たちの世界に直接、入ってくるというとんでもない大事件が起きたのでした。

しかし、この事件を知らされたのはほんのわずかな人々でした。それはマリアであり、ヨセフであり、この羊飼いたちでした。少し遅れて東方の博士たちにも知らされました。この博士たちを通して、その国のヘロデ大王もそのことを知りました。彼はこの事件のもつ大きな意味を直感しました。「もしそれが本当なら、とんでもないことになる。自分の地位も危ない」と思ったのです。しかしそれはヘロデが感じたよりも、もっともっと大きな意味をもつ出来事でした。《言は肉となって、わたしたちの間に宿られた》のです。

神は永遠なるお方です。世の初めから終わりまでおられる方、《アルファであり、オメガである》(黙示録1章8)方です。とこしえに絶えることはありません。当時の世界では、そういうお方は決して、滅ぶべき肉体をとらないと考えられていました。これは私たちの現代の常識にも通じることです。しかしヨハネ福音書は、それを意識しながら、あえてそれに挑戦するように、《言は肉となって、わたしたちの間に宿られた》、と記したのです。

それは、永遠のお方が時間の中に入ってこられたということです。それは、どんな場所にも限定されないお方が、あえてある場所にたどり着いたということ、ある空間に入ってこられたということです。無限であるお方が有限の世界の中に入ってこられたということです。神が人となるとは、そういうことなのです。

なぜあえてそのようなことをなさったのでしょうか。このように記されています。《わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた》(16)。神はそのように恵みに満ちあふれたお方であるから、それがあふれ出てきたのです。恵みが神ご自身の中にとどまることなく、私たちの世界にまで到達した、そういう出来事でした。神がそう決意されたのは、神の愛です。

普通、人間であれば、悪いことをされたら、あるいは裏切られたら、相手を憎んだり、怒りを持って報復したりするでしょう。しかし、神は、そうはなさいません。神が、その桁違いに大きな愛のゆえに、逆に人間になってしまったのです。《言は肉となって、私たちのうちに宿られた》とは、そういう大きな、そして不思議な出来事を語っています。人間が神になることはできません。しかし、全能の神であれば、私たちの想像を超えたことですが、人間になることもできるのです。

神は怒りと裁きをご自分で引き受けるために、父の独り子なる神、イエス・キリストをこの世界に送ることを決意したのでした。《神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである》(ヨハネ3章16)。

神は遠いところから人間を見守るだけではいられなくなっったのです。そうしているなら、人間は滅びるだけです。ですから、もっともっと近くに、見える形で来られました。それがイエスさまです。そのお方は、神の愛のしるしでしたから、《恵みと真理に満ちていた》(14)のです。

私たちは、昨年一年も、神はおられるのだろうかと思わざるを得ないような、さまざまな出来事を経験しました。しかし、二千年前のクリスマスの夜に、誰も知らないところで、神の大きな歴史が始まったように、今も私たちの世界にあって、私たちの気が付かないところで、神がすでに大きな働きを始めておられることを信じたいと思います。新しい年も、そのような神の愛が確かに働いていることに信頼しつつ、歩んでいきましょう。

祈りましょう。天の父なる神さま。あなたが御子イエスさまとして世に現れ、私たちに対するあなたの愛と信実を示し、罪の贖いを果たしてくださったことを感謝します。この年もあなたの愛と救いの約束に信頼して歩む私たちを支えてください。救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。